プロ野球界で長年活躍した中田翔さん。
wiki経歴を見ると、日本ハム・巨人・中日の3球団で18年間プレーしてきました。
学歴をたどると、大阪桐蔭高校時代に通算87本塁打という驚異的な記録を打ち立てています。
高校時代には投手としても最速150km/h超の球速を誇り、「平成の怪物」という異名で全国に名を轟かせていました。
本記事では、中田翔さんの輝かしい経歴と学歴について解説していきます。
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中田翔のwiki経歴
画像引用元:BASEBALL KING
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中田翔さんは広島県出身の元プロ野球選手です。
恵まれた体格を生かしたパワフルな打撃が持ち味で、2007年の高校生ドラフトで4球団が1巡目で競合し、抽選の末、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得。
背番号6は、かつての「ミスターファイターズ」田中幸雄さんが背負った番号で、大きな期待を寄せられての入団となりました。
その後、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズでもプレーし、2025年に現役引退を表明。
引退後は野球解説者やタレントとして活動を開始し、2026年からは東海ラジオで解説者を務めることが発表されました。
北海道日本ハムファイターズ時代
画像引用元:中日新聞
2008年に入団した中田翔さんは、当初は期待に応えられない時期が続きました…。
1年目は一軍昇格を果たせず、キャンプでの遅刻トラブルや左手首の骨折などもあり、プロの壁に直面します。
しかし2009年には二軍で30本塁打を放ち、新記録となる95打点をマークするなど、才能が徐々に開花。
プロ4年目の2011年からレギュラーに定着し、18本塁打、91打点を記録。2012年からは不動の4番打者として君臨。
打点王を3度獲得(2014年、2016年、2020年)し、特に2016年には110打点を記録してチームの日本一に大きく貢献。
守備面でもゴールデングラブ賞を4回受賞するなど、攻守にわたってパ・リーグを代表する選手へと成長。
日本ハムでの13年半は黄金期でしたね!
読売ジャイアンツ時代
画像引用元:full-Count
2021年途中から巨人でプレーを始めた中田翔さん。
移籍直後は環境の変化や調整不足もあり、34試合で打率.154、3本塁打と苦しい成績に終わります。
しかし翌2022年には見事な復活を遂げました。
開幕当初は二軍スタートとなりましたが、夏場にかけて調子を取り戻していきます。
8月からは主砲・岡本和真さんに代わって4番に座る機会も増え、勝負強い打撃でチームを牽引。
シーズン通算で24本塁打、68打点を記録し、一塁手として5度目のゴールデングラブ賞も獲得。
逆境に負けない強さを感じさせる活躍でしたね!
2023年シーズンは怪我の影響で出場機会が減少します…。
92試合の出場で15本塁打、37打点という成績でした。
シーズン終了後、自らの意思で複数年契約を破棄して退団を決断します。
中日ドラゴンズ時代
画像引用元:週刊ベースボールONLINE
2024年、新天地として中日ドラゴンズに加入した中田翔さん。
開幕から「四番・一塁」として起用され、長打力不足に悩むチームの救世主として期待されました。
しかし5月中旬に右太ももを痛めて戦線離脱し、8月には腰痛を発症するなど、シーズンを通して故障に泣かされます…。
62試合の出場で打率.217、4本塁打、21打点という結果。
2025年も開幕スタメンに名を連ねましたが、深刻な打撃不振から抜け出せません…。
26試合で打率.159、2本塁打という厳しい成績が続き、同年8月15日にシーズン途中での現役引退を表明。
9月19日の試合が引退試合となり、18年間のプロ野球人生に幕を下ろしています。
年度別打撃成績
画像引用元:週刊野球太郎
中田翔さんのNPBにおける18年間の年度別打撃成績は以下の通りです。
| 年度 | 所属球団 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | 安打 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 2009 | 日本ハム | 22 | .278 | 0 | 1 | 10 |
| 2010 | 日本ハム | 65 | .233 | 9 | 22 | 49 |
| 2011 | 日本ハム | 143 | .237 | 18 | 91 | 125 |
| 2012 | 日本ハム | 144 | .239 | 24 | 77 | 131 |
| 2013 | 日本ハム | 108 | .305 | 28 | 73 | 124 |
| 2014 | 日本ハム | 144 | .269 | 27 | 100 | 143 |
| 2015 | 日本ハム | 143 | .263 | 30 | 102 | 142 |
| 2016 | 日本ハム | 141 | .250 | 25 | 110 | 142 |
| 2017 | 日本ハム | 129 | .216 | 16 | 67 | 102 |
| 2018 | 日本ハム | 140 | .265 | 25 | 106 | 143 |
| 2019 | 日本ハム | 124 | .242 | 24 | 80 | 109 |
| 2020 | 日本ハム | 119 | .239 | 31 | 108 | 105 |
| 2021 | 日本ハム/巨人 | 73 | .177 | 7 | 20 | 40 |
| 2022 | 巨人 | 109 | .269 | 24 | 68 | 91 |
| 2023 | 巨人 | 92 | .255 | 15 | 37 | 67 |
| 2024 | 中日 | 62 | .217 | 4 | 21 | 46 |
| 2025 | 中日 | 26 | .159 | 2 | 4 | 10 |
| 通算 | 3球団 | 1784 | .248 | 309 | 1087 | 1579 |
※太字は最多打点獲得年
特に打点王を獲得した2014年、2016年、2020年の3シーズンが輝いていますね。
2013年には打率.305を記録し、打撃センスの高さも証明しました。
18年間のプロ野球人生で、通算309本塁打、1087打点という立派な記録を残しています。
日本代表としての活躍
画像引用元:CYCLE
中田翔さんは日本代表「侍ジャパン」のメンバーとしても国際舞台で活躍しました。
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)には2013年と2017年の2大会に出場。
特に2017年大会では一塁手として出場し、日本の準決勝進出に貢献しています。
また、2015年に開催された第1回WBSCプレミア12では4番打者を務め、チームを牽引して日本の銅メダル獲得に一役買いました。
国際大会でのこうした経験は、選手として大きな財産になったはずです。
日の丸を背負って戦う姿は、多くのファンの記憶に残っているでしょう!
中田翔の学歴
中田翔さんの野球人生は幼少期から始まっていました。
ここでは中田翔さんの学歴について詳しく解説していきたいと思います。
小学生時代
広島市立竹屋小学校に通っていた中田翔さんは、小学3年生から広島鯉城リトルで野球を始めます。
当初は捕手としてプレーし、小学6年生で投手に転向しました。
母子家庭で育った中田翔さんを、母・香織さんが女手一つで育ててくれました。
「母が大変な思いをしてグローブを買ってくれた」と後に語っており、野球に打ち込める環境を整えてくれた母親への感謝の気持ちが伝わってきますね!
近所の公園で練習する日々が、プロへの第一歩となったのです。
中学生時代
広島市立国泰寺中学校に進学した中田翔さんは、広島鯉城シニアに所属します。
ここで才能が一気に花開きました。
エースで5番、さらに主将まで務めた中田翔さんは、連盟記録となる通算51本塁打を記録しています。
投手としても最速141km/hを計測し、打者としてもパワーを発揮しました。
中学3年時には日本代表に選出され、アメリカ遠征でMVPを獲得するなど、全国に名を轟かせます。
もう中学生の時点で全国区の選手だったんですね!
特に有名なエピソードが、県大会で放った推定170mの場外本塁打です。
この打球は隣の神社の屋根を破壊してしまい、弁償を求められたという逸話が残っています。
そのパワーは既に規格外だったことがわかりますね!
中田翔の高校時代は投打の二刀流で「平成の怪物」だった
大阪桐蔭高校時代の中田翔さんは、投打両面で圧倒的な能力を発揮していました。
投手としての才能
画像引用元:Web Sportiva
中田翔さんの投手としての能力は、入学前からすでに伝説となっていました。
高校入学前に学ランと革靴という格好でマウンドに立ち、試しに投げた球が140km/hを記録したというエピソードがあります。
この1球を見た先輩が「即レギュラーだ」と確信したそうです。
高校時代には最速150km/h超のストレートを投げ、スライダー、カットボール、カーブなど多彩な変化球も自在に操ります。
コントロールも抜群で、クイックは平均1.1秒という数字を記録していました。
さらにフィールディングやけん制も上手く、投手としての総合力は非常に高かったんですね。
2年秋の大阪大会では準決勝までの6試合で1失点、36奪三振という圧倒的な成績を残しています。
大阪桐蔭の西谷浩一監督も「衝撃度は間違いなく中田翔が一番」と評価していました。
打者としての才能
画像引用元:Web Sportiva
打者としての中田翔さんも規格外でした。
高校入学直後の4月の練習試合で推定140mのホームランを放ち、即座にレギュラーに抜擢されています。
バッティング練習では打球を飛ばしすぎるため、場外にも守備をつけていたほど。
それでもその守備のはるか上を越えていくパワーだったそうです。
高校通算87本塁打という当時の新記録を樹立し、甲子園には3度出場して通算4本塁打を記録。
豪快なフルスイングで本塁打を量産し、広角に打ち分ける技術も持ち合わせていたんですね!
1年夏の甲子園では背番号17で「5番・一塁」としてスタメン出場し、「スーパー1年生」として大阪桐蔭のベスト4進出に貢献。
この活躍が、常勝軍団・大阪桐蔭の幕開けを象徴するものとなったのです!
「平成の怪物」の由来
画像引用元:NumberWeb
中田翔さんが「平成の怪物」と呼ばれた理由は、投打両面での圧倒的な実力にあります。
投手としては150km/h超の剛速球、多彩な変化球、抜群のコントロール、優れたマウンドさばきを兼ね備えていました。
打者としては規格外の飛距離、高校通算87本塁打、広角に打ち分ける技術を持っていたのです。
この二刀流の才能は、大谷翔平さんが登場するまで高校野球界で最も注目される存在でした。
大阪桐蔭の関係者からは「大阪桐蔭史上最高の才能」とまで言われており、その身体能力と野球センスは別格だったと評価されています!
二刀流を断念した理由
画像引用元:NumberWeb
高校時代に投打の二刀流として活躍していた中田翔さんですが、プロ入り後は打者一本に絞った道を選びます。
その理由は肘の故障でした。
もし怪我がなければ、大谷翔平さんのように投打の二刀流としてプロで活躍していた可能性も十分にあったでしょうね!。
実際、「やり方次第では二刀流もできた」という評価もあるほど、投手としての完成度は高かったのです。
しかし打者一本に絞った結果、NPB通算309本塁打を記録する強打者へと成長しました。
結果的には打者として大きな成功を収めたと言えるでしょう。
もし二刀流を続けていたらという「if」は尽きませんが、中田翔さんは打者としての道を極めたのです。
まとめ
中田翔さんは、高校時代に「平成の怪物」として投打両面で圧倒的な才能を発揮しました。
プロ入り後は日本ハム・巨人・中日の3球団で18年間活躍し、3度の打点王を獲得。
NPB通算309本塁打という立派な記録を残しています。高校時代の二刀流から打者一本に絞った決断は正しかったと言えるでしょう。
現在は野球解説者として新たなキャリアを歩んでいます。

