東京都荒川区出身の鈴木誠也選手は、広島東洋カープで「神ってる」と称されたNPBの主砲から、現在はMLBシカゴ・カブスで活躍する日本を代表するスラッガーです。
小学生時代に「平成の星親子」として全国に紹介され、高校では投打の二刀流で注目を集めたwiki経歴と学歴に迫ります。
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鈴木誠也のwiki経歴
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鈴木誠也選手は、日本プロ野球(NPB)とメジャーリーグ(MLB)の双方で輝かしい実績を積み上げてきた選手です。
広島東洋カープで不動の主砲として君臨した後、ポスティングシステムを経てMLBへと舞台を移しました。
国際舞台でも日本代表として数々の成果を残しており、その経歴は実に多彩です。
広島東洋カープ時代
2012年のNPBドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受け、鈴木誠也選手はプロ入りを果たします。
入団当初は内野手として登録されましたが、すぐに外野手へコンバート。
この転向が彼の才能を大きく引き出すことになります。
プロ4年目の2016年シーズンには歴史的なブレイクを遂げました。
6月17・18日のオリックス戦で2試合連続サヨナラ本塁打を放ち、当時の緒方孝市監督から「神ってる」と称賛されます。
この言葉は同年の流行語大賞にも輝きました。
最終的に打率.335・29本塁打・95打点という成績を残し、チームを25年ぶりのセントラル・リーグ優勝へと導いた快進撃は今も語り継がれています。
以降も鈴木誠也選手は広島の主砲として毎年安定した数字を積み重ね、2019年と2021年には首位打者と最高出塁率の二冠を達成。
広島在籍9年間で首位打者2回、ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞5回という輝かしいタイトル歴は、NPBを代表するスラッガーとしての地位を証明するものです。
NPB通算成績(広島東洋カープ)
| 年度 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | OPS |
|---|---|---|---|---|---|
| 2016 | 129 | .335 | 29 | 95 | 1.015 |
| 2019 | 140 | .335 | 28 | 87 | 1.018 |
| 2021 | 132 | .317 | 38 | 88 | 1.072 |
| 通算 | 902 | .315 | 182 | 562 | .984 |
シカゴ・カブス時代
2021年シーズン終了後、ポスティングシステムを利用してMLB挑戦を表明した鈴木誠也選手は、2022年3月にシカゴ・カブスと5年総額8,500万ドルの大型契約を締結。
当時の日本人野手史上最高額の契約でした。
MLBデビュー戦から安打を放ち、そこから8試合連続安打を記録するという鮮烈なスタートを切ります。
2022年4月にはナショナル・リーグ月間最優秀新人賞も受賞しました。
2023年シーズンには日本人右打者として史上初となるシーズン20本塁打を達成し、改めてその打棒が世界に通用することを示したのです。
さらに2025年シーズンでは32本塁打・103打点を記録。
日本人選手として3人目となるシーズン30本塁打・100打点という偉業を達成しており、メジャーでも確固たる地位を築いている点は本当に素晴らしいですね!
MLB通算成績(シカゴ・カブス)
| 年度 | 試合 | 打率 | 本塁打 | 打点 | OPS |
|---|---|---|---|---|---|
| 2022 | 111 | .262 | 14 | 46 | .770 |
| 2023 | 138 | .285 | 20 | 74 | .842 |
| 2024 | 132 | .283 | 21 | 73 | .848 |
| 2025 | 151 | .245 | 32 | 103 | .804 |
| 通算 | 532 | .269 | 87 | 296 | .818 |
日本代表としてのキャリア
鈴木誠也選手は国際舞台でも日本の主軸として存在感を発揮してきました。
2017年のWBCで初のトップチーム代表入りを果たすと、2019年のWBSCプレミア12では8試合で打率.444・3本塁打・13打点という圧巻の数字を叩き出し、大会MVPに輝きます。
2021年の東京オリンピックでは4番打者として全試合に出場し、日本の野球競技金メダル獲得を支えました。
2023年WBCは左脇腹の負傷により無念の出場辞退となりましたが、その悔しさをバネに2026年WBCへの出場を決断。
「出ないで後悔するぐらいだったら」という言葉に、代表への真剣な思いが滲み出ていますね!
鈴木誠也の学歴
鈴木誠也選手は小学校から高校まで一貫して野球に打ち込み、大学には進学せず高校卒業後すぐにプロ入りした「野球一筋」の経歴を持ちます。
各時代のエピソードを知ると、現在の活躍がいかに地道な積み重ねの上に成り立っているかが実感できると思います。
「平成の星親子」として紹介された小学生時代
鈴木誠也選手が野球を始めたのは小学2年生のときです。
小学校は荒川区立第五峡田小学校に通っていました。
地元の硬式野球チーム「荒川リトルシニア」に入団し、高校進学まで約7年間をそのチームで過ごしました。
入団当初から体格に恵まれ、上級生の試合にも顔を出すほどの実力を早期から発揮していたといいます。
中でも語り継がれるエピソードが、小学6年生時のものです。
エースになった鈴木誠也選手のボールが速すぎて、1学年下のレギュラー捕手では捕球できなかったという「怪物エピソード」が残っています。
その凄みは当時から際立っていたことが分かりますね!
さらに2006年3月18日放送の『出没!アド街ック天国』(テレビ東京)では、当時小学5年生だった鈴木誠也選手と実父が「平成の星親子」として紹介されました。
父が自宅内に造った練習場でトスバッティングに励む映像が全国に流れ、「荒川に鈴木誠也あり」とその名が広く知られることとなります。
幼少期からここまで野球に情熱を注げるのは、並外れた才能と環境があってこそだと感じますね!
エースとして活躍した中学生時代
荒川区立第九中学校に進学し、中学時代も「荒川シニア」に所属し、エースとして春夏連続で全国大会に出場した鈴木誠也選手。
すでに最速138キロのストレートを投じる実力を持ち、地域の強豪チームのエースとして確固たる存在感を示していました。
一方で、当時は学校の成績が芳しくなかったため、実力があってもエースナンバーを背負えなかったという一面も…。
2ケタの背番号をつける鈴木誠也選手の姿を見た他チームの指導者が「なぜあの子が2ケタなんだ?」と疑問を呈するほど、実力と背番号の間にはギャップがあったと伝えられています。
やんちゃな一面も持ちながら才能を磨いた、人間的な奥行きを感じるエピソードですね!
投打の二刀流で活躍した高校生時代
中学卒業後、都内外40校以上の強豪校から誘いがあった鈴木誠也選手。
しかし小学生の頃に市原勝人監督から「ウチに来いよ」とかけられた言葉を大切にし、二松學舍大学附属高校を選びます。
父と市原監督が共に荒川区出身で旧知の仲だったという縁も、その決断を後押ししたようですね。
高校入学後、鈴木誠也選手は1年生の秋にはすでにエース格として台頭。
市原監督が「将来的には野手で活躍する選手だと思っていたが、1年時から140キロを投げていてピッチャーとしても十分な力があった」と振り返るほどの成長を見せました。
最終的に投手として最速148キロを記録し、打者としても高校通算43本塁打を放ちます。
50メートル5秒8の俊足も兼ね備え、投打のどちらでも頭角を現した真の二刀流選手だったのです。
甲子園への挑戦については、2年・3年ともに東東京大会の準決勝で涙を飲みます。
市原監督は「甲子園に出られなかったことを本人が負い目に感じているかもしれないが、それをバネにしたから今の誠也がある」と語っています。
その悔しさがプロ入り後の爆発的な成長につながったと考えると、挫折もまた大切な糧だったといえるでしょうね。
また鈴木誠也選手は、高校3年の秋に「坂本勇人選手のような勝負強いバッターになりたい」と語っていました。
この目標がプロ入り後の自分像に結びつき、現在の姿を形作ったのでしょう。
さらに、自身が「練習大嫌いだった」と後に明かした高校時代、監督から「ちゃんと練習しないとプロに入ってから困るぞ」と諭されたことで気持ちを切り替えたといいます。
この”改心”のエピソードも、今の鈴木誠也選手を語る上で欠かせない一幕ですね!
まとめ
鈴木誠也選手は、「平成の星親子」として幼少期から注目を集め、二刀流の高校生として多くのスカウトを魅了しました。
広島時代に「神ってる」と称される活躍でNPBのスターとなり、MLB移籍後も日本人右打者初の20本塁打など次々と新記録を樹立。
甲子園未出場という悔しさをバネに世界へ羽ばたいた姿は、多くのファンに夢と勇気を与え続けていますね!







