ベーブ・ルースのwiki経歴と学歴!二刀流の野球の神様の本名と“ベーブ”の由来!

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「野球の神様」として100年以上経った今なお世界中で語り継がれるベーブ・ルースは、投手と打者をこなした二刀流の先駆けとしても知られる伝説的な選手です。

本名は「ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア」で、「ベーブ」という愛称には意外な由来があります。

この記事では、ベーブ・ルースのwiki経歴と学歴を中心に、その波乱万丈な野球人生に迫りたいと思います。

ベーブ・ルースのwiki経歴

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  • 生年月日:1895年2月6日
  • 出身地:メリーランド州ボルチモア
  • 身長・体重:188cm・97kg
  • 投打:左投げ・左打ち
  • ポジション:投手(後に外野手)
  • 通算試合数:2,503試合
  • 通算打率:.342
  • 通算本塁打:714本
  • 通算打点:2,214点
  • 通算長打率:.690(MLB歴代1位・現在も不滅)
  • 本塁打王:12回

ベーブ・ルースは1914年にプロデビューを果たし、1935年に引退するまでの22年間にわたってメジャーリーグの舞台で活躍し続けました。

投手として頂点を極め、その後は打者として野球の歴史そのものを塗り替えたキャリアは、今読み返しても圧巻のひと言に尽きます。

ボストン・レッドソックス時代の投手成績

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ベーブ・ルースはボストン・レッドソックスに加入した当初、球界を代表する左腕投手として名声を確立していきました。

1915年に18勝、1916年には防御率1.75で最優秀防御率のタイトルを獲得し、翌1917年も24勝を挙げるなど圧倒的な安定感を誇ります。

ワールドシリーズでも無類の強さを発揮し、通算防御率0.87という驚異的な数字を残しました。

投手としての実力だけでもすでに殿堂入り級であり、そのことが後の「二刀流」評価をより際立たせています。

年度 勝利 敗戦 防御率 試合数 完投 完封 投球回 奪三振
1914 2 1 3.91 4 1 0 23.0 3
1915 18 8 2.44 32 16 1 217.2 112
1916 23 12 1.75 44 23 9 323.2 170
1917 24 13 2.01 41 35 6 326.1 128
1918 13 7 2.22 20 18 1 166.1 40
1919 9 5 2.97 17 12 0 133.1 30
通算 89 46 2.19 158 105 17 1189.2 483

二刀流の先駆けとなる打者への転向

投手として活躍しながらも、ベーブ・ルースの打撃センスはチームの誰もが認めるものでした。

登板のない日は野手として試合に出場するようになり、1918年シーズンには投手として13勝を挙げながら11本塁打を放つという、前代未聞の偉業を達成しています。

1919年には本格的に外野手へ転向し、当時のMLB記録となる29本塁打を放って全米を驚かせました。

約100年後に大谷翔平選手が注目を集めるはるか以前から、ベーブ・ルースは二刀流の可能性を体現していたのです。

ニューヨーク・ヤンキース時代の打者黄金期

1920年にニューヨーク・ヤンキースへ移籍したベーブ・ルースは、打者として完全に開花します。

移籍初年度に54本塁打、翌年には59本塁打と次々に記録を塗り替え、1927年にはシーズン60本塁打という歴史的な大記録を樹立しました。

強力打線「マーダラーズ・ロウ」の中心として君臨し、チームを7度のリーグ優勝・4度のワールドシリーズ制覇へと導きます。

彼の人気によって建設されたヤンキー・スタジアムは「ルースが建てた家」と呼ばれ、その影響力がいかに大きかったかを物語っています。

ベーブ・ルースの打撃成績

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長打率.690というMLB歴代最高記録は、100年以上経過した現在も誰にも破られていません

これほどまでに時代を超えた数字を残したことは、まさに「神様」と称されるにふさわしい所以といえるでしょう。

年度 チーム 試合 打数 本塁打 打点 打率 長打率 OPS
1919 BOS 130 432 29 113 .322 .657 1.113
1920 NYY 142 457 54 135 .376 .849 1.382
1921 NYY 152 540 59 168 .378 .846 1.358
1923 NYY 152 522 41 130 .393 .764 1.309
1927 NYY 151 540 60 165 .356 .772 1.258
1931 NYY 145 484 46 162 .373 .700 1.195

通算成績

試合 打率 安打 本塁打 打点 四球 出塁率 長打率
2,503 .342 2,873 714 2,214 2,062 .474 .690

キャリア晩年と引退

1930年代に入るとベーブ・ルースの成績は緩やかに下降し、1934年限りでヤンキースを去ります。

翌1935年にボストン・ブレーブスへ移籍しましたが、往年の輝きを取り戻すことはできず、同年に22年間の現役生活に幕を下ろしました。

1936年には野球殿堂創設時の初選出メンバーの一人として選ばれ、1948年8月16日に53歳でその生涯を閉じています。

告別式には2日間で15万人ものファンが訪れたとされ、彼が国民的英雄として愛されていたことをあらためて感じさせます。

野球の神様・ベーブ・ルースの本名は?

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「ベーブ・ルース」という名前はあまりにも有名ですが、実はこれは本名ではなく愛称です。

本名や「ベーブ」という呼び名の由来を知ると、彼の人生がより立体的に見えてきます。

本名は「ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア」

ベーブ・ルースの本名は「ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman “Babe” Ruth Jr.)」です。

日本ではもちろん、アメリカ国内においても本名よりも「ベーブ・ルース」の愛称のほうがはるかに広く定着しています。

ちなみに、ベーブ・ルース自身は長年にわたり誕生日を1894年2月7日だと思い込んでおり、1934年にパスポート申請の際にはじめて出生証明書で1895年2月6日と記載されていることを知ったという、ユニークなエピソードも残っています。

「ベーブ」の由来

「ベーブ(Babe)」は英語で「赤ちゃん」を意味する言葉です。

1914年にプロ入りしたばかりの若きルースがオーナーのジャック・ダンに連れられてチームに合流した際、チームメイトから「ダンの新しいベーブ(赤ちゃん)だ」とからかわれたことが愛称の起源とされています。

また、矯正施設育ちで世間知らずなところを「赤ちゃんみたい」とみなされたという説もあります。

いずれにせよ、その童顔と純朴さがにじみ出るエピソードで、なんとも人間味あふれる由来だと感じます。

ベーブ・ルースの学歴

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ベーブ・ルースの学歴は、一般的な学校教育とはまったく異なる歩みをたどりました。

矯正施設という特殊な環境で育ったからこそ、後の伝説が生まれたともいえます。

生い立ち

ベーブ・ルースは1895年2月6日、メリーランド州ボルチモアで生まれました。

父親はサルーン(酒場)を経営しており、家庭環境は決して安定したものではありませんでした。

5歳でタバコを覚えたともいわれ、幼いころから非行を繰り返す問題児として知られていたとされています。

セント・メアリー少年工業学校への入所

両親の手に負えなくなったベーブ・ルースは、7歳のときにカトリック系の全寮制矯正施設「セント・メアリー少年工業学校」へ入所させられます。

孤児院と職業訓練校を兼ねたこの施設では厳格な規律が敷かれており、ベーブ・ルースは12歳で母を亡くしても葬儀以外では外出が許可されなかったほどでした。

一方でシャツの縫製技術を習得するなど、職業訓練の機会も与えられています。

施設での生活は決して楽なものではなかったはずですが、そこでの経験が後の強靭な精神力を育んだのかもしれません。

ブラザー・マティアスとの出会い

セント・メアリーでベーブ・ルースの人生を大きく変えたのが、修道士のブラザー・マティアスとの出会いです。

ブラザー・マティアスは父親のような存在としてベーブ・ルースに寄り添い、野球の基礎を一から指導しました。

最初は捕手として起用され、後に左腕投手として頭角を現したベーブ・ルースは、やがてボルチモア一帯にその名を知られるエースへと成長します。

有名になってからも恩師への感謝を忘れず、高価な自動車をプレゼントしたという逸話が残っているほど、二人の絆は生涯を通じて続きました。

プロへの道

施設での活躍はマイナーリーグのボルチモア・オリオールズ(当時)のオーナー、ジャック・ダンの耳に届きます。

修道士たちがダンを練習に招待し、直接プレーを見せたことがプロ契約のきっかけとなりました。

1914年、19歳でセント・メアリーを退所し、プロ野球の世界へ踏み出したベーブ・ルースの快進撃はここから始まります。

正規の学校教育はほとんど受けていないにもかかわらず、のちに「野球の神様」と呼ばれるまでになった生き様は、多くの人に勇気を与え続けています。

まとめ

ベーブ・ルースは矯正施設という逆境の中から世界最高の野球選手へと上り詰めた、まさにアメリカン・ドリームの体現者です。

投打二刀流の先駆けとして野球の戦術を一変させ、本名ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアの名よりも「ベーブ・ルース」として永遠に語り継がれる存在となりました。