青森県三沢市出身の千葉ロッテマリーンズ・種市篤暉選手は、ドラフト6位という下馬評を覆し、ロッテのエース格へと上り詰めた本格派右腕です。
八戸工大一高時代に甲子園出場こそ果たせなかったものの、類まれな向上心でプロ入り後に飛躍的な成長を遂げました。
今回は種市篤暉選手のwiki的な経歴と学歴、そして八戸工大一高時代の成績1位エピソードと甲子園未出場の真実に迫りたいと思います。
Contents
種市篤暉のwiki経歴
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青森の海沿いで育った種市篤暉選手は、幼い頃から野球一筋の道を歩んできました。
その姿勢は高校でも、そしてプロ入り後も変わることなく、常に上を目指す向上心が彼の原動力となっています。
アマチュア時代からプロ入りまで
種市篤暉選手が本格的に野球を始めたのは小学3年生のこと。
青森県という厳しい環境の中でも才能を磨き続け、三沢市立第二中学校の野球部でも着実に実力を蓄えていきます。
中学時代からすでにストレートの球速は130キロ台に達しており、その素質は同世代の中でも群を抜いていました。
高校は八戸工大第一高校へ進学。
入学直後からベンチ入りを果たし、先輩エースとの二枚看板として頭角を現します。
2年秋には最速145キロまで球速を伸ばし、背番号1を勝ち取ってエースに昇格。
秋季青森大会では決勝まで勝ち進む活躍を見せました。
チームメートからの刺激を受けながら走り込みやウエイトトレーニングに取り組む姿は、のちのプロでの成長を予感させるものでした。
そして2016年10月のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズから6位指名を受け、契約金3000万円・年俸480万円(推定)でプロ入りを決意。
背番号63を付けてNPBの舞台に立ちます。
プロ入り後のキャリア
プロ1年目(2017年)はイースタン・リーグでわずか1試合の登板にとどまり、苦しいスタートを切りました。
しかし種市篤暉選手はここで腐ることなく、オフにはソフトバンクの千賀滉大投手に弟子入りし、自身の投球術を磨くことに注力します。
その努力が実を結んだ2018年は、フレッシュオールスターにも選出されるほどの活躍を見せ、8月12日のオリックス戦でプロ初登板・初先発を果たしました。
6回2失点と好投し、可能性の片鱗を示します。
転機となったのは2019年シーズンです。
自身初の開幕一軍入りを果たすと、4月29日の楽天戦でプロ初勝利を記録。
8月には日本人最多の23イニング連続奪三振という記録にも並ぶなど、シーズン8勝2敗・防御率3.24という堂々たる成績でローテーションを守り抜きました。
背番号も16へと変更され、期待の大きさが伝わってきます。
トミー・ジョン手術と復活への道
飛躍の予感を漂わせた2020年でしたが、種市篤暉選手に大きな試練が訪れます。
7月25日の西武戦でプロ初完封勝利を飾ったわずか1週間後、右肘の違和感で登録抹消となり、9月14日に右肘の内側側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けることが発表されました。
投手にとって右腕は命とも言える存在。
その靭帯を手術するということは、選手としてのキャリアすら左右しかねない重大事です。
種市篤暉選手の悔しさは計り知れなかったでしょう。
2021年は実戦登板が一切なく、ただひたすらリハビリに専念する日々が続きました。
9月にはブルペン投球を再開するなど回復の兆しを見せましたが、それでも焦らず着実に体を作り直していきます。
2022年4月に二軍戦で復帰登板を果たし、8月11日のソフトバンク戦では740日ぶりとなる一軍マウンドへ。
完全復活への手応えをつかんだ1年となりました。
エース格への成長
長いトンネルを抜けた2023年は、種市篤暉選手が真のエースとして覚醒したシーズンです。
3年ぶりに開幕ローテーション入りを果たし、4月9日の楽天戦では988日ぶりの一軍白星を手にします。
8月には自身初の2桁勝利となる10勝目もクリアし、シーズン通算10勝7敗・防御率3.42、リーグ2位の157奪三振という堂々たる数字を残しました。
オールスターにも初選出されるなど、球界を代表する投手としての地位を確立していきます。
さらに2025年には月間MVPを獲得。
通算成績では37勝を積み重ね、年俸も推定1億3000万円まで上昇しました。
そして2026年3月には念願の侍ジャパン・WBCメンバーに選出され、韓国戦での三者連続三振という鮮烈な投球でその実力を世界に証明。
ドラフト6位という低い評価から這い上がった男の物語は、今もなお続いています。
種市篤暉の学歴
プロとして輝かしい実績を重ねている種市篤暉選手ですが、その成長の原点は幼少期から高校時代にかけて培われた経験にあります。
ここでは種市篤暉選手の学歴について、時代ごとに振り返ってみましょう。
WBCでイチローの活躍に心打たれた小学生時代
種市篤暉選手が野球を始めたのは三沢市立三沢小学校の3年生のとき。
実家の隣が海という環境で育ち、自然の中でのびのびと育った少年が、ひとつの映像に心を鷲掴みにされます。
それが2009年3月24日、WBC決勝の韓国戦でした。
小学5年生だった種市篤暉選手は、担任の先生が「国民的行事だから特別だよ」とテレビをつけてくれた教室で、クラスメートと一緒に画面に釘付けになります。
延長10回、イチロー選手が放ったサヨナラ2点タイムリー。
その瞬間の興奮は、今も鮮明に記憶に刻まれているといいます。
「あのイチローさんの決勝打を見たときの感動は忘れられません」と語る種市篤暉選手の目に、野球への情熱が灯ったことは間違いありません。
当時は「プロ野球選手はすごい、でも自分には無理だ」と感じていたという種市篤暉選手が、17年後に侍ジャパンのユニホームをその手につかみ取るとは、運命の不思議さを感じずにはいられませんよね!
軟式野球で全国大会に出場した中学生時代
三沢市立第二中学校に進学した種市篤暉選手は、野球部に所属して本格的に投手としての技術を磨きます。
中学時代からすでにストレートは130キロ台を計測しており、同年代の中では飛び抜けた存在でした。
全国大会にも出場を果たし、その才能を全国舞台で発揮。
青森という地方校でありながら高いレベルで戦う経験を積んだことが、のちの八戸工大一高での成長につながります。
中学時代に全国の強豪と対戦したことで、自分に足りないものを明確に把握できたことも大きかったでしょう。
たとえ負けても下を向かず、次の課題に向かい続ける姿勢は、すでにこの頃から培われていたと言えます。
クラスで1番の成績を収めた高校生時代
八戸工大第一高校では、野球はもちろん学業においても手を抜かなかった種市篤暉選手。
練習終わりでも集中力を切らさず勉強に取り組み、クラスでトップクラスの成績を収めていたと伝わっています。
野球と勉強のどちらにも全力で向き合う姿勢は、チームメートからも一目置かれる存在でした。
野球においても、入学後すぐにベンチ入りを果たし、2年秋にはエースナンバーである背番号1を勝ち取ります。
右肩の違和感で一時離脱する時期もありましたが、「今日はストレート以外ダメだった。このままでは光星に打たれてしまいます」と自己分析できるほど、課題に真摯に向き合う選手でした。
3年生最後の夏、2試合で合計19奪三振という圧巻の数字を残しながらも、準々決勝で大湊高校に惜敗。
甲子園の夢は叶いませんでした。
青森県は光星学院(現・八戸学院光星)という強豪校の壁が分厚く、甲子園への道は極めて険しかったのです。
しかし、この悔しい経験がプロでの闘志につながったのは確かでしょう。
まとめ
種市篤暉選手は小学生のWBCでイチロー選手の活躍に感銘を受け、中学・高校と野球と勉強の両立に励みながらプロの道を歩み始めました。
ドラフト6位からスタートし、トミー・ジョン手術という重大な試練も乗り越えて、今や侍ジャパンを担うエース格へと成長しています。
その歩みは、諦めない心の大切さを教えてくれます!




