広島県出身のプロ野球選手・有原航平選手は、広陵高校、早稲田大学を経て北海道日本ハムファイターズでエースとして活躍し、MLB挑戦を経て復活を遂げた右腕投手です。
今回は有原航平選手のwiki風の経歴や学歴、そしてなぜ日ハムに戻ってきたのか、その理由についても詳しく調査しました。
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有原航平のwiki経歴
有原航平選手は、広島県広島市生まれの右腕投手です。
1992年8月11日生まれで、身長190cm・体重100kgという恵まれた体格を誇ります。
高校・大学を経てプロ入りし、新人王の獲得からMLB挑戦、さらには完全復活を果たすまで、波乱に富んだキャリアを歩んできました。
まずは各球団での活躍を振り返ってみましょう。
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プロ入りの経緯として、2014年のNPBドラフト会議では横浜DeNA、広島東洋、阪神、日本ハムの4球団から1位指名を受けました。
抽選の結果、北海道日本ハムファイターズが交渉権を獲得し、プロの世界へと踏み出すことになります。
北海道日本ハムファイターズ時代
プロ1年目の2015年、肘の痛みで開幕こそ遅れたものの、5月にプロ初登板・初勝利を記録します。
この年は8勝を挙げ、将来性を評価されてパ・リーグの新人王に輝きました。
新人王を獲得した事実が、いかに期待値が高かったかを物語っています。
2016年には11勝・防御率2.94と安定感を増し、チームの日本一にも貢献。
先発ローテーションの柱として確かな存在感を示していきます。
そして迎えた2019年シーズンは、有原航平選手にとってまさにキャリアの頂点でした。
24試合に登板して自己最多の15勝を記録し、防御率2.46という圧巻の数字で最多勝利投手賞のタイトルを初めて手にしました。
2020年シーズンも20試合で8勝を積み上げ、安定した成績を残した後、ポスティングシステムを通じてMLB挑戦を決意します。
テキサス・レンジャーズ時代
2021年、テキサス・レンジャーズと2年契約を結んでMLBデビューを果たした有原航平選手でしたが、5月下旬に右肩の動脈瘤が発見され、手術を余儀なくされます。
この不運が、その後のパフォーマンスに大きな影響を与えました。
2021年は10試合の先発で2勝4敗・防御率6.64に終わり、翌2022年もシーズン途中で3Aへ降格という苦しい展開が続きます。
MLBでの2年間は通算15試合・3勝7敗・防御率7.57という成績に留まり、2022年オフにフリーエージェントとなりました。
夢の舞台での挑戦は、想像を超える試練の連続だったと言えるでしょう。
福岡ソフトバンクホークス時代
2023年に福岡ソフトバンクホークスへ入団し、日本球界に復帰した有原航平選手。
開幕は二軍スタートとなりましたが、6月の一軍昇格後に先発ローテーションへ定着すると、17試合で10勝という見事な成績を残してチーム唯一の2桁勝利投手となりました。
2024年には26試合に登板してリーグトップの投球回を記録し、2年連続2桁勝利を達成。
自身2度目の最多勝と初のベストナインに選出されます。
さらに2025年には26試合で14勝・3度目の最多勝を獲得し、チームの日本一にも大きく貢献しました。
MLB挑戦前を超える完全復活を遂げた点には、心から拍手を送りたいです。
有原航平はなぜ日ハムに戻ってきたのか?
2025年オフ、ソフトバンクから自由契約となった有原航平選手は、6シーズンぶりに古巣・北海道日本ハムファイターズへの復帰を決断しました。
ソフトバンクの残留オファーや読売ジャイアンツとの争奪戦も報じられる中での決断だっただけに、その理由は多くのファンの関心を集めました。
では、何が有原航平選手を動かしたのでしょうか。
球団からの熱烈なラブコール
有原航平選手が復帰を決断した背景には、日本ハム球団からの情熱的なアプローチがありました。
入団会見で自ら語ったところによると、吉村浩チーム統括本部長から「優勝を目指していくために有原の力が必要だ」という言葉を繰り返し伝えられたことが、心に強く響いたといいます。
さらに、クライマックスシリーズでの投球を高く評価され、「あれをぜひファイターズでやってくれ」「有原が入って優勝しよう」といった具体的な言葉でアプローチを受けたことも明かされています。
この熱意あふれる口説き文句に対し、有原航平選手は「そうやって言っていただいたらファイターズで優勝したいなという気持ちになりました」とコメント。
選手の心を動かすのは、やはり人の熱意なのだと改めて感じさせてくれるエピソードです。
金銭面以外の価値観
今回の争奪戦では、ソフトバンクが日本ハムの提示した「4年総額24億円規模」ともいわれる大型契約を上回る条件を提示していたと報じられています。
それでもなお、有原航平選手は金銭的な好条件よりも「自分を必要としてくれる球団でプレーする」という選択を優先しました。
また、日本ハムOBの岩本勉氏は、かつてポスティングシステムでのMLB挑戦を認めてくれた古巣への「義理」や「恩返し」の気持ちが影響したのではないかと推測しています。
目先の条件だけにとらわれない価値観が、有原航平選手という人物の誠実さを端的に表しているように思います。
古巣復帰による新たな挑戦
有原航平選手は会見で、6年ぶりの復帰について「戻ってきたというよりは本当に新しく来たっていう風に思ってる」と語り、フレッシュな気持ちで臨む姿勢を強調しました。
在籍当時とは本拠地が札幌ドームからエスコンフィールドHOKKAIDOに変わり、選手の顔ぶれも大きく異なるため、「僕の中で別のチームに近いぐらいの感じ」と表現しています。
背番号もかつての「16」から「74」へ変更し、「新たな気持ちでやりたい」と決意を新たにしている点も印象的です。
かつて自分が活躍したチームに帰るという感覚ではなく、未知の環境で再出発するという意識のあり方が、有原航平選手のこれからへの期待を一層高めてくれます。
有原航平の学歴
有原航平選手の輝かしいプロキャリアの土台には、少年時代から培ってきた確固たる野球人生があります。
広島市佐伯区で育ち、小学生の頃から投手としてのキャリアをスタートさせました。
ここでは学生時代の歩みを紐解いていきます。
小学生・中学生時代
有原航平選手は、地元の彩が丘小学校2年生の時に「河内少年野球クラブ」で野球を始め、当時から投手を担っていました。
チームの卒団式では、先輩のスピーチそっちのけで「ご馳走はまだ食べちゃいけないの?」と周囲に聞いていたという微笑ましいエピソードも残っており、子供らしい一面が垣間見えます。
中学時代については詳細な記録は多くありませんが、地元の中学校に通いながら野球を継続していたとみられます。
この頃から着実に力をつけ、名門への進学へとつながっていきます。
春夏連続で甲子園に出場した高校生時代
2008年、有原航平選手は野球の名門・広陵高等学校に入学。
190cmに迫る大型投手として早くから注目を集め、2年生の秋からエースナンバーを背負いました。
そして3年生になると、春夏連続で甲子園出場という快挙を成し遂げます。
春のセンバツ1回戦では立命館宇治相手に立ち上がりこそ苦しみましたが、そこから立て直して13奪三振の完投勝利。
最速147km/hの速球と多彩な変化球で「高校生離れしている」と絶賛されました。
夏の全国選手権では後にプロ入りする歳内宏明投手と壮絶な投手戦を繰り広げましたが、0-1で惜敗という結果でした。
ドラフト1位候補として注目を集めながらも、プロ志望届は提出せず大学進学を選んだ点も、彼の慎重な姿勢を感じさせます。
苦難と成長の大学生時代
高校卒業後、有原航平選手は早稲田大学スポーツ科学部へ進学します。
東京六大学という名門リーグでプレーする環境に身を置きましたが、斎藤佑樹、大石達也、福井優也という「ドラ1トリオ」が卒業した直後の入学だっただけに、大きな期待とプレッシャーを背負っての4年間となりました。
下級生時代は期待に応えられない時期や怪我に苦しむ場面もありましたが、この挫折の経験がプロでの精神的な強さの礎になったとも言われています。
大学2年生の時、後輩と担当していた朝食の配膳係で後輩が寝坊してしまったエピソードにおける対応が、彼の人間性を示すものとして語り継がれています。
4年生になる頃には大学球界を代表するエースに成長し、通算成績は19勝12敗。2014年のドラフトでは4球団競合の末に日本ハムへ入団し、プロへの扉を開きました。
苦難の4年間があったからこそ、その後の活躍があったと言えるでしょう。
まとめ
有原航平選手は、広陵高校・早稲田大学という名門を経てプロの世界へ飛び込み、日本ハムでのエース時代、MLB挑戦の苦闘、ソフトバンクでの完全復活と、波乱万丈のキャリアを積み上げてきました。
そして2026年、6シーズンぶりの古巣復帰という新たな挑戦に踏み出します。
今後のさらなる活躍が楽しみです!



