野球ファンの皆さんは、日本人として初めてメジャーリーグでプレーした選手をご存知でしょうか。
それが村上雅則さんです。
1944年生まれの村上雅則さんは、1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツでデビューし、日本人のメジャーリーグ挑戦の扉を開いた偉大な先駆者です。
当時の日本では、プロ野球選手がアメリカに渡るという発想すらほとんどありませんでした。
そんな時代背景の中で、村上雅則さんは未知の世界に飛び込み、2シーズンにわたってリリーフ投手として活躍。
その後日本球界に復帰し、通算103勝を記録するなど長きにわたって活躍し続けました。
現在も社会貢献活動を通じて多くの人々に影響を与え続けている村上雅則さんの軌跡を、詳しく振り返ってみましょう。
Contents
村上雅則のプロフィール
画像引用元:高知新聞
村上雅則さんの基本的なプロフィールをご紹介します。
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村上雅則さんは戦争の影響を受けた世代で、父親が満州に召集されていたため、幼少期は祖父母のもとで育ちました。
父親がソ連での捕虜生活を経て帰国したのは、村上雅則さんが5歳の誕生日のことでした。
その後は厳格な家庭環境で成長し、やがて野球の道へと進んでいくことになります。
身長183cmという当時としては恵まれた体格と、左投げという特性が、後のメジャーリーグでの活躍につながったのかもしれません。
村上雅則の経歴
画像引用元:zakzak
村上雅則さんの野球人生は、高校時代から始まります。
神奈川県の名門・法政大学第二高等学校に進学した村上雅則さんでしたが、1年先輩には後に読売ジャイアンツで活躍する柴田勲さんがエースとして君臨していました。
このため村上雅則さんは控え投手として過ごすことになります。
高校時代は不運にも怪我や体調不良に見舞われ、本来の実力を十分に発揮する機会に恵まれませんでした。
2年生の夏には練習中の打球直撃による骨折、3年生の夏には大会直前の体調不良など、まさに泣きっ面に蜂の状況だったのです。
しかし、これらの困難が後の強靭な精神力を育んだのかもしれません。
高校卒業後の1963年、村上雅則さんは南海ホークスに入団します。
プロ入り2年目の1964年、球団の方針でアメリカへの野球留学生として選出されることになりました。
当時はまだ海外留学制度が始まったばかりで、村上雅則さんは史上初の挑戦者となったのです。
日本人初のメジャーリーガー誕生
村上雅則さんのメジャーリーグ挑戦は、まさに前人未到の出来事でした。
当時の日本では、プロ野球選手がアメリカに渡るという発想自体が珍しく、村上雅則さん自身もアメリカについてほとんど知識がない状態での渡米となりました。
MLB入団の経緯
画像引用元:Wikipedia
村上雅則さんのメジャーリーグ入団は、南海ホークスの技術向上を目的とした海外留学制度から始まりました。
1964年3月、村上雅則さんは後輩2人とともにサンフランシスコへ派遣されます。
最初はサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノでプレーを開始しました。
当初、球団関係者もメジャー昇格は想定していませんでしたが、村上雅則さんはマイナーリーグで目覚ましい活躍を見せます。
その結果、同リーグの新人王に選ばれるなど好成績を収めました。
この活躍が認められ、1964年8月31日にメジャーリーグに昇格。
翌9月1日の対ニューヨーク・メッツ戦で、日本人として初めてメジャーリーグのマウンドに立つことになったのです。
この瞬間は、日本野球史における記念すべき第一歩となりました。
マッシー村上の由来は?
画像引用元:Sportiva
「マッシー村上」という愛称の由来は、実は単純な理由からでした。
村上雅則さんの本名「マサノリ」を、アメリカ人が発音しやすくしたものが「マッシー」だったのです。
1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツでプレーした際、現地の人々が「マサノリ」の発音に苦労していました。
そこで自然と「マッシー」と呼ばれるようになり、「マッシー・ムラカミ」として親しまれるようになったのです。
この愛称は現在でも村上雅則さんを表す代名詞として使われており、日本人メジャーリーガーの先駆者を象徴する名前として歴史に刻まれています。
アメリカの野球ファンにとっても、この愛称は特別な意味を持っているに違いありません。
MLBでの活躍と成績
画像引用元:スポーツ報知
村上雅則さんはメジャーリーグでリリーフ投手として活躍しました。
左スリークォーター投げで、130キロ程度の速球とスクリューボールを武器としていました。
現在の基準では決して速くない球速ですが、変化球の切れ味と制球力で勝負していたのです。
メジャーリーグでの成績
- 1964年:9試合登板、1勝0敗1セーブ、防御率1.80
- 1965年:45試合登板、4勝1敗8セーブ、防御率3.75
- 通算:54試合登板、5勝1敗9セーブ、防御率3.43
特に1965年シーズンは45試合に登板し、8セーブを記録するなど安定した成績を残しています。
ライバルチームのドジャース戦では9試合13イニングを投げて防御率0.69という優秀な成績を記録しました。
印象的なエピソードとして、緊張を解きほぐすために坂本九さんの「上を向いて歩こう」(スキヤキソング)を口ずさみながらマウンドに上がったという逸話があります。
この話からも、当時の村上雅則さんの心境がうかがえますね。
MLBを退団した理由とは?
画像引用元:Sportiva
村上雅則さんがメジャーリーグを去ることになった背景には、契約問題がありました。
1965年シーズン中、村上雅則さんの契約を巡って南海ホークスとジャイアンツの間で問題が発生したのです。
この「二重契約問題」により、村上雅則さんは一時的に宙ぶらりんの状態となりました。
日本のマスコミからは厳しい扱いを受けることもあり、精神的にも困難な時期だったと想像されます。
最終的に1966年に南海ホークスに復帰することで合意に至りましたが、この経験は村上雅則さんにとって大きな試練となったでしょう。
しかし、この困難を乗り越えたからこそ、その後の日本球界での活躍につながったのかもしれません。
村上雅則のNPBでの活躍
画像引用元:サンスポ
メジャーリーグから日本球界に復帰した村上雅則さんは、その後も長きにわたって活躍を続けました。
アメリカでの経験を活かし、日本球界でも存在感を示していきます。
南海ホークス時代
1966年に南海ホークスに復帰した村上雅則さんは、日本球界でもエース級の働きを見せました。
メジャーリーグでの経験が大きく活かされたのでしょう。
特に1968年には18勝4敗、防御率2.38という素晴らしい成績を記録し、最高勝率のタイトルを獲得しています。
この年の活躍は、村上雅則さんの投手としての技術が日本球界でも十分通用することを証明しました。
1970年から1972年まで3年連続で2桁勝利を記録するなど、チームの中心投手として活躍。
南海ホークス時代は村上雅則さんにとって最も充実した時期の一つだったのではないでしょうか。
メジャーリーグでの経験が、日本での投球にも良い影響を与えていたことがうかがえます。
阪神タイガース時代
1975年、村上雅則さんは阪神タイガースに移籍します。
しかし、この時期は必ずしも順調ではありませんでした。
18試合の登板で2勝2敗、防御率5.76という成績に終わっています。
年齢的な衰えもあったでしょうし、環境の変化も影響したかもしれません。
阪神タイガース時代は村上雅則さんにとって調整期間のような意味合いがあったのかもしれません。
それでも、この経験が次のステップへの糧となったことは間違いないでしょう。
日本ハム時代
1976年に日本ハムファイターズに移籍した村上雅則さんは、ここで第二の全盛期を迎えます。
特に1977年には61試合に登板し、7勝4敗6セーブ、防御率2.33という素晴らしい成績でリリーフ投手として復活を遂げました。
この時の活躍は、村上雅則さんの適応力の高さを物語っています。
先発からリリーフへの転向を成功させ、チームに貢献し続けました。
1978年にも12勝11敗10セーブ、防御率2.78と安定した成績を残しています。
1982年に現役を引退するまで、村上雅則さんはNPB通算103勝82敗30セーブという立派な成績を残しました。
メジャーリーガーとしての経験を日本球界でも十分に活かした、見事なキャリアだったと言えるでしょう。
引退後の活動は?
現役引退後の村上雅則さんは、指導者として野球界に貢献し続けました。
日本ハムファイターズ、福岡ダイエーホークス、西武ライオンズでコーチを歴任し、後進の指導に当たっています。
また、古巣のサンフランシスコ・ジャイアンツの極東スカウトやNHKのMLB解説者としても活動しました。
メジャーリーグと日本球界の橋渡し役として、その経験を活かした活動を続けています。
野球界での活動と並行して、社会貢献活動にも熱心に取り組んでいることが印象的です。
MLB時代に出会ったロベルト・クレメンテ選手の慈善活動への情熱に感銘を受け、その遺志を継ぐ形で難民支援などの活動を続けています。
村上雅則の現在は?
画像引用元:毎日新聞
現在81歳の村上雅則さんは、健康状態も良好で精力的に活動を続けています。
2025年6月10日にはみずほペイペイドームで始球式を行い、元気な姿を見せてくれました。
この時は、かつて所属したサンフランシスコ・ジャイアンツのユニフォームを着用し、豪快なワインドアップを披露。
投球後のコメントでは「持つのは(酒の)グラスばっかりだよ」と冗談を交えながら語り、その人柄の良さと健康的な様子を見せています。
社会貢献活動も継続しており、国連UNHCR協会の国連難民サポーターとして27年以上にわたって活動を続けています。
毎年チャリティーゴルフを主催し、スペシャルオリンピックスへの寄付活動も行っているのです。
これらの功績により、2023年には日米協会から「マーシャル・グリーン賞」を、2024年には「第14回日本スポーツ学会大賞」を受賞しています。
野球選手としての功績だけでなく、人間としても尊敬される存在であることがうかがえますね。
まとめ
以上が、日本人初のメジャーリーガー村上雅則さんの人生と功績について振り返ってきましたが、最後に簡単にポイントをまとめたいと思います。
- 日本人初、アジア人初のメジャーリーガーとして歴史を作った
- メジャーリーグで2シーズン、54試合に登板し5勝1敗9セーブの成績を記録
- NPBでは通算103勝82敗30セーブという立派な成績を残した
- 指導者として後進の育成に貢献した
- 27年以上にわたって社会貢献活動を継続している
村上雅則さんの最も素晴らしい点は、野球選手としての功績だけでなく、人間性の高さにあると感じます。
メジャーリーグ時代にロベルト・クレメンテ選手から受けた影響を、現在も社会貢献活動として継続していることは本当に素晴らしいことです。
現在の日本人メジャーリーガーたちが活躍できる土台を築いたのは、間違いなく村上雅則さんの存在があったからこそです。
大谷翔平選手をはじめとする現代の選手たちも、村上雅則さんの功績を忘れてはいけませんね。
81歳になった現在も元気で活動を続けている村上雅則さんの姿は、多くの人にとって励みになることでしょう。
日本野球界の偉大な先駆者として、これからも末永く健康で活躍し続けてほしいと願っています。