北海道日本ハムファイターズの期待の新星、柴田獅子選手をご存知でしょうか。
2024年ドラフト1位で入団した彼は、投手と打者の両方で活躍する「二刀流」として大きな注目を集めています。
2025年7月のプロ初登板では3回完全投球という衝撃的なデビューを飾り、野球ファンの心を掴みました。
身長189cmの恵まれた体格から繰り出される最速153km/hの速球と、高校通算19本塁打を記録した打撃力は、まさに次世代のスター候補と言えるでしょう。
今回は、そんな柴田獅子選手の学歴や経歴、プロフィールについて詳しく紹介していきます。
また、ネット上で話題となっている「西武ライオンズファン説」についても真相を明らかにします。
Contents
柴田獅子のプロフィール
画像引用元:スポニチSponichiAnnex
まず、柴田獅子選手の基本的なプロフィールをご紹介します。
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柴田獅子選手は福岡県飯塚市で生まれ育ちました。
現在19歳という若さながら、すでにプロの世界で注目される存在となっています。
特筆すべきは、その恵まれた体格でしょう。
189cmの長身から投げ下ろされる速球は、角度があり打者にとって非常に打ちにくいボールとなります。
右投左打という投打のバランスも魅力的で、投手としてだけでなく打者としての能力も高く評価されているのです。
血液型がO型ということも、大舞台で力を発揮する「強心臓」ぶりと関係があるのかもしれません。
柴田獅子の幼少期
画像引用元:スポニチSponichiAnnex
柴田獅子選手の幼少期は、現在の堂々とした姿からは想像できないエピソードがあります。
実は、幼い頃は「泣き虫」だったことが父親の証言で明らかになっているのです。
保育園のお遊戯会では、ステージに立つと一歩も動かず、一人で泣いていたそうです。
父親の禎さんは「最初は泣いていたけど、途中から涙が出なくなると泣きまねをしていた」と当時を振り返っており、微笑ましいエピソードとして語られています。
「強心臓」。そんな言葉が似合う日本ハム・柴田だが、幼少期は意外にも「泣き虫」だった。保育園のお遊戯会ではステージで一歩も動かず、一人泣いていたという。父・禎さんは「最初は泣いていたけど、途中から涙が出なくなると泣きまねしよるんですよ」と、苦笑いで明かす。福岡の自宅にある写真は、泣いている姿ばかりだった。
柴田獅子選手は三兄弟の末っ子として育ちました。
12歳年上の長男・勇真さん、11歳年上の次男・涼壱さんという年の離れた兄たちがいる環境で成長したのです。
この大きな年齢差が、後の彼の成長に大きな影響を与えることになります。
野球を始めるきっかけも家族にありました。
父親と2人の兄の影響で自然と野球に触れる機会が多く、家族全体が野球に関わっていたことが分かります。
この時期から、柴田獅子選手の野球人生が始まったと言えるでしょう。
興味深いのは、「獅子(れお)」という名前の由来です。
これは祖父が西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)のファンだったことに関係しています。
ライオンズへの愛着から「獅子」と名付けられたという、とても印象的な命名エピソードがあるのです。
柴田獅子の小学生時代
小学校時代の柴田獅子選手について見ていきましょう。
彼は飯塚市立庄内小学校に通い、小学2年生から野球を始めました。
実は最初は「サッカーがしたい」と両親に言っていたそうです。
しかし、サッカー部は部員が多く入れなかったため、父親から「野球をしなさい」と勧められて野球の道に進むことになりました。
もしサッカー部に入れていたら、今の柴田獅子選手はいなかったかもしれません。
運命とは不思議なものですね。
地元の軟式野球チーム「庄内ジャガーズ」に所属し、野球の基礎を学びました。
この時期から彼の才能は周囲に認められており、チーム内でも一目置かれる存在だったようです。
家族のサポートも素晴らしいものがありました。
年の離れた2人の兄との練習は、彼にとって貴重な経験となりました。
母親のあけみさんは「兄の練習についていくのも大変でしたが、負けず嫌いでした。お兄ちゃんに負けてむきになっていました」と当時を振り返っています。
この負けず嫌いな性格こそが、現在の柴田獅子選手の競争心の源となっているのでしょう。
年上の兄たちとの練習で鍛えられた精神力は、プロの世界でも大いに役立っているはずです。
小学生時代は現在の「強心臓」とは対照的に「泣き虫」だった彼ですが、野球を通じて徐々に精神面でも成長していったことが伺えます。
柴田獅子の中学生時代
画像引用元:西日本新聞
中学生時代は柴田獅子選手にとって大きな転換点となりました。
飯塚市立庄内中学校に進学した彼は、学校の野球部ではなく硬式野球クラブチーム「飯塚レパーズ」に所属しました。
この時期の最も注目すべき点は、著しい身体的成長です。
中学2年時には178cm、中学3年時には180cmを超える体格に成長し、体重も86kgまで増加しました。
この急激な成長により、早い段階から「大型選手」として関係者の注目を集めるようになったのです。
特筆すべきは、新型コロナウイルス感染拡大による制限期間中の取り組みです。
約3ヶ月間、毎日10キロのランニングを継続したことで、球速が約10キロ向上したと言われています。
この努力こそが、現在の柴田獅子選手の基礎体力を築いたと言えるでしょう。
制限された環境の中でも「もっと力をつけたい」という強い思いから、自分にできることを見つけて実行する姿勢は素晴らしいものがあります。
このような自主性と向上心が、プロ野球選手として成功する要因の一つなのでしょう。
飯塚レパーズでは硬式野球への転向により、より高いレベルでの技術習得に取り組みました。
投球技術の向上はもちろん、体力強化やインナーマッスル強化による体のバランス維持など、総合的な能力向上に努めていたのです。
柴田獅子の高校生時代
高校生時代は柴田獅子選手の野球人生において最も重要な時期となりました。
福岡大学附属大濠高等学校での3年間は、彼をドラフト1位候補にまで押し上げた黄金期と言えるでしょう。
大濠高等学校へ進学した理由
画像引用元:西日本新聞
柴田獅子選手が福岡大学附属大濠高等学校への進学を決めた理由は明確でした。
八木啓伸監督から直接声をかけてもらったことが大きなきっかけとなります。
さらに、憧れの山下舜平大選手をはじめ、多くのプロ野球選手を輩出している学校だったことも進学の決め手となりました。
プロ野球選手を目指す彼にとって、最適な環境が整っていたのです。
八木監督の指導方針も柴田獅子選手の成長に大きく影響しました。
「考える力」を重視し、選手に自分の不足している部分を考えさせる指導法は、彼の野球IQを高めることにつながったでしょう。
二刀流としての活躍
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柴田獅子選手の最大の魅力は「二刀流」としての能力です。
投手としても打者としても一流の技術を持つ彼の活躍は、多くの人々を魅了しました。
投手としては最速149キロの速球を記録し、2年秋からエースを務めるようになりました。
長身から投げ下ろす角度のあるボールは、打者にとって非常に打ちにくい球質だったのです。
打者としても高校通算19本塁打を記録する長打力を発揮しました。
エース兼4番打者として活躍する姿は、まさに「リトル大谷」と称されるにふさわしいものでした。
一塁手としての守備も担当し、攻守にわたって貢献していたのです。
高校3年間での成績
画像引用元:日刊スポーツ
柴田獅子選手の高校3年間の成績を詳しく見てみましょう。
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これらの数字からも、彼の投手としての安定感が分かります。
特に被本塁打0という記録は、制球力と球質の良さを物語っています。
甲子園への挑戦については、3年間で出場を果たすことはできませんでした。
しかし、3年夏の福岡大会では決勝まで進出し、西日本短大付との決勝戦まで駒を進めました。
甲子園出場は叶わなかったものの、その実力は十分に示されていたのです。
八木監督は柴田獅子選手について「私が思い描いていた高校時代での到達点に余力を残して到達できた」と評価しています。
まだ成長の余地を残した状態でプロ入りを果たしたことが、将来への大きな期待につながっているのでしょう。
柴田獅子が西武ライオンズファンなのは本当?
画像引用元:スポニチSponichiAnnex
ネット上で話題となっている「柴田獅子選手が西武ライオンズファン」という噂について、真相を明らかにしたいと思います。
結論から申し上げると、柴田獅子選手本人が西武ライオンズファンであるという事実はありません。
この噂は、彼の名前の由来と混同されて生まれたものと考えられます。
正確な情報を整理すると、柴田獅子選手の名前の由来は祖父が西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)のファンだったことにあります。
祖父が西鉄ライオンズの大ファンで、「獅子(ライオン)」にちなんで「れお」と名付けたのです。
西鉄ライオンズは当時福岡市に本拠地を置いており、柴田獅子選手の出身地である福岡県飯塚市と同じ福岡県という縁もありました。
このような背景から、名前に深い意味が込められているのです。
ネット上では「名前に獅子が入っているし、もしかして西武ライオンズのファン?」といった憶測が広まりました。
Yahoo!知恵袋でも「親は西武ライオンズのファンでしょうか?」という質問が投稿されるなど、この話題は多くの人の関心を集めました。
実際の2024年ドラフト会議では、西武ライオンズは柴田獅子選手を指名していません。
1位指名で競合したのは日本ハムファイターズと福岡ソフトバンクホークスでした。
抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得し、現在に至っています。
この美しい名前の由来は、祖父から孫への愛情と福岡県という地域性が込められた特別な意味を持っています。
柴田獅子選手にとって誇りある名前となっており、現在は日本ハムファイターズの一員として「北のレオ」として活躍が期待されているのです。
まとめ
以上が、柴田獅子選手について詳しく見てきました。最後に簡単にポイントをまとめたいと思います。
- 189cmの恵まれた体格から繰り出される最速153km/hの速球
- 高校通算19本塁打を記録した長打力を持つ二刀流選手
- 2025年7月のプロ初登板で3回完全投球という衝撃デビュー
- 幼少期の「泣き虫」から「強心臓」へと成長した精神力
- コロナ禍での毎日10キロ走という自主的な努力
- 祖父の西鉄ライオンズ愛から名付けられた「獅子(れお)」という名前
柴田獅子選手の成長過程を振り返ると、家族の愛情とサポート、そして本人の努力と才能が見事に結実していることが分かります。
幼少期は「泣き虫」だった少年が、現在では3万5000人を超える大観衆の前で堂々とプロデビューを果たすまでに成長したのは、まさに努力の賜物でしょう。
特に印象的なのは、制限された環境でも自分にできることを見つけて実行する姿勢です。
コロナ禍での毎日10キロ走は、彼の向上心と責任感を物語る素晴らしいエピソードだと思います。
西武ライオンズファン説については事実ではありませんが、名前の由来に込められた祖父の愛情は非常に美しい話です。
この名前とともに、北海道の地で新たな野球人生を歩んでいる柴田獅子選手の今後の活躍が楽しみでなりません。
二刀流として大谷翔平選手の再来を期待される声も多い中、彼らしいスタイルで成長していってほしいと思います。
まだ19歳という若さを考えると、これからどのような選手に成長していくのか、ファンとしては目が離せません。