千葉ロッテマリーンズからポスティングシステムでメジャー移籍を目指し、その去就が注目されている佐々木朗希選手。
「令和の怪物」と称される彼のピッチングは、これまで数々の記録を打ち立て、日本球界に驚きを与えてきました。
しかし、その華々しいキャリアの背景には、東日本大震災という試練を乗り越えた努力と、周囲の支えがありました。
この記事では、佐々木朗希選手の小学生時代の野球との出会い、高校での伝説的な活躍、そしてプロ入り後の輝かしい実績を振り返りながら、彼の学歴や経歴を紹介していきます。
- 「大船渡高校時代の登板回避にはどんな背景があったのか」
- 「佐々木朗希選手がどのようにして“令和の怪物”と呼ばれる存在になったのか」
- 「MLB挑戦までにどんなストーリーがあったのか」
佐々木朗希選手が歩んできた道のりを知ることで、今後の活躍をより楽しめるようになるでしょう。
Contents
佐々木朗希のプロフィール
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まずは、佐々木朗希選手のプロフィールを見ていきましょう。
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2001年11月3日生まれ。岩手県陸前高田市出身のプロ野球選手。
岩手県立大船渡高等学校を経て、2019年のドラフトで1位指名を受けプロ入り。
2022年には完全試合を達成し、1試合での奪三振数日本記録タイ(19奪三振)や連続打者奪三振記録の世界新記録(13者連続)を樹立しました。
2024年、ポスティングシステムを行使してのメジャーリーグ移籍を目指しています。
佐々木朗希の学歴
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ここでは、佐々木郎希選手の学歴を紹介していきます。
- 小学生時代:野球との出会い
- 中学校時代:才能の開花
- 高校時代:大船渡高校での伝説
各年代でのエピソードとともに、これまでの道のりを振り返っていきましょう。
小学校時代:野球との出会い
佐々木郎希選手が野球と出会ったのは、陸前高田市立高田小学校3年生のとき。
地元の高田野球少年団でプレーしていた兄の影響を受け、同じ少年団で野球を始めます。
ピッチングフォームを研究するのが好きだった小学生時代の佐々木郎希選手は、憧れの選手の“モノマネ”をすることで自らのピッチングフォームに磨きをかけていきました。
「田中将大選手のことはずっと好きだったのでマネしていました。成長するにつれて体形が細くて背が高い感じになっていったので、ダルビッシュ有選手とか大谷翔平選手のフォームもマネしていましたね。もともと遊びで野球をやっているときから、こういう感覚で投げているんだろうなと考えながら野球選手のマネをするのは好きだったので、その延長です。プロ野球選手なら身体の使い方は正しいだろうし、マネをするのがうまくなる近道だと思ってやってきましたから、そうやって最終的に自分だけのフォームを確立することができたときは、これもすごく嬉しかったですね」
引用:Number Web
佐々木郎希選手は小学3年生のとき、東日本大震災に被災しました。
岩手県陸前高田市の自宅が津波で流され、最愛の父親と祖父母を亡くします。
その悲しみや寂しさを振り払うかのように、佐々木郎希選手は避難所でもキャッチボールを続けました。
佐々木郎希選手は「野球をしているときが、唯一震災の悲しみや寂しさを忘れさせてくれた」と、当時を振り返ります。
「野球をしているときが一番楽しかった。夢中になれる時間があったおかげで、つらいときも頑張れた」
引用:産経新聞
そして2013年、岩手三陸沿岸の少年野球チームによる大会「リアスリーグ」に出場した佐々木郎希選手は、大会実行委員会からの注目を集めます。
画像引用元:NEWS ポストセブン
リアスリーグ総括プロデューサーの山田康生さんは、当時の佐々木郎希選手の印象を次のように語りました。
「眼鏡をかけていて、すごく繊細だなという印象でした。がつがつのスポ根の少年には見えなかったね」
引用:日刊スポーツ
大会決勝戦まで進んだリアスリーグでは、千葉ロッテの本拠地であるQVCマリンフィールド(現・ZOZOマリンスタジアム)で試合を行い、見事に優勝を果たしています。
東日本大震災で亡くした父親に捧げるこの勝利は、彼の野球人生にとって特別な意味を持つ試合となったことに間違いありません。
中学校時代:才能の開花
小学校卒業後、大船渡市立第一中学校に進学した佐々木朗希選手は、軟式野球部に入部しました。
1年次から投打で実力を認められた佐々木郎希選手は、2年生秋の新人戦からエースナンバーを背負います。
しかし、中学3年となる直前の2016年初春に腰の疲労骨折が判明。これにより長期間のリハビリを余儀なくされました。
それでも佐々木郎希選手の野球に対する気持ちが折れることはなく、毎日グラウンドに来て直向きに練習に取り組みます。
佐々木朗希選手と小学3年生から約10年間、同じチームでプレーした今野聡太さんは、常に努力を欠かさない彼の姿を次のように語りました。
「本当に努力家でした。中学のときもけがをしていてもグラウンドに来て、できる練習をずっとしていた。確かに恵まれた体格で身長も大きいし腕も長いと思うし、天性のものもあるとは思うんですけど、それ以上に体の使い方とかをよく考えていました。」
この怪我は、佐々木朗希選手の成長過程において重要な試練となり、復帰後のプレースタイルや精神面に影響を与えたと考えられます。
また、佐々木朗希選手は自身の小学生時代のプレーについて「思うように球を投げられず、コントロールも悪かった。正直、下手くそだった」と、振り返ります。
そんな彼が才能を開花させる転機を迎えたのは、中学卒業間近のある出来事がきっかけでした。
岩手県では、中学3年生が軟式野球部を引退すると、ゴム製ながら硬式球と同じ大きさ・重さの「Kボール」を使って地域代表チームが結成されます。
腰のケガが癒えた佐々木朗希選手も地元チーム「オール気仙」に加入し、Kボールの岩手大会に出場しました。
この大会、オール気仙は見事に岩手大会を制して全国大会へ進出。
佐々木朗希選手はそこでクローザーとしてチームを支え、自己最速の141キロを記録する活躍を見せました。この経験が、彼の投球パフォーマンスを飛躍的に向上させたのです。
「中学野球のときの軟球が、高校では硬球に変わるじゃないですか。だから岩手では高校野球に向けて、中3の夏の大会が終わるとKボール(表面がゴム製で軟球と同じ空洞の構造ながら、大きさや重さ、反発係数が硬球とほぼ同じボール)の大会が行われていました。その練習のとき、Kボールの大きさが自分の手に合っていることに気づいて……僕、手が大きいせいで小学校のときはC球に合わなかったし、中学のときはB球に合わなかった。それが自分に合うボールを握った途端、それまで130kmも出なかったまっすぐが、いきなり140kmを超えてきたんです。もともと悪かったコントロールも一気に安定して、それ以来、コントロールに苦しむことはありません。もう、嬉しくて……」
引用:Number
この中学生時代のパフォーマンスが注目を集め、花巻東高校や盛岡大附属高校など、岩手県内の強豪私立からも声がかかっていた佐々木郎希選手ですが、「大船渡の仲間と甲子園を目指したかった」という思いを貫き、大船渡高校への進学を決断しました。
高校時代:大船渡高校での伝説
佐々木朗希選手は大船渡高校時代に数々の伝説を残しました。
特に注目されたのは、2019年の岩手県大会決勝での登板回避です。
画像引用元:Number Web
この年の岩手県大会決勝戦は、大船渡高校にとって35年ぶりの甲子園切符がかかっていました。
しかし、大船渡高校を指揮する國保監督は、プロ注目のエース・佐々木朗希選手をマウンドに送り出すことはありませんでした。
その理由は「佐々木朗希を故障から守るため」。
國保監督はこの大きな決断を、事前に大船渡ナインにも、佐々木朗希選手本人にも伝えなかったことを明かしています。
「事前に本人に相談したら、『投げたいです』と言うのは明らかだった。野手に伝えたら、『僕らが朗希をサポートするので、投げさせてやってください』と言うに決まっています。一言でも彼らに相談したら、(佐々木の登板を)止められなくなると思いました。もし疲労困憊の状況でマウンドに上がったら、力んで投げて、たとえ勝って甲子園に駒を進めたとしても、肩、ヒジ、腰、股関節、膝……これは想像でしかありませんが、将来に残るようなケガのリスクは高かったんじゃないかなと思います」
引用:Number Web
この、エース登板回避という采配にネット上では賛否の声が飛び交うも、國保監督は「たとえあの日に時間が戻ったとしても、試合日程や登板間隔が同じシチュエーションなら、僕が朗希を花巻東との決勝に起用することはありません」と、強い覚悟を表しました。
かつて、監督の采配による5打席連続敬遠で“甲子園の伝説”となった松井秀喜選手(元・ヤンキース、巨人)のように、國保監督の覚悟を持った采配が、佐々木朗希選手の伝説を作ったとも言えるでしょう。
画像引用元:Number Web
また、2019年4月6日に行われた高校日本代表候補合宿での紅白戦で、ストレートが163km/hを計測したことも佐々木郎希選手がもつ伝説の一つです。
「すごく緊張して変な力が入ったが、出てよかった。春の時点で(160キロを)投げたかったし、何となくいけるかなと思っていた」(佐々木郎希選手談)
引用:サンスポ
この記録は、当時の高校生最速記録であり、大谷翔平選手(ドジャース)が持っていた160km/hの記録を更新しています。
この驚異的な速球は彼を「令和の怪物」と称されるきっかけとなり、その名を一躍全国に知らしめました。
佐々木朗希の経歴
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メジャーリーグへの移籍交渉が大詰めを迎えている佐々木朗希選手。
ここでは、高校卒業からメジャーリーグ挑戦までの経歴を紹介していきます。
佐々木朗希選手が日本球界に残したさまざまな記録にも注目です。
プロ入りまでの道のり
2019年10月1日付けでプロ志願届を正式に提出し、「12球団どこでも頑張りたい」と語った佐々木郎希選手。
ドラフト会議前のスカウト活動では、多くの球団が佐々木郎希選手に注目し、特に彼の身体能力や投球技術に対する評価が高まりました。
巨人のスカウト部長である長谷川国利氏(現・東海大監督)は「こんな日本人がいるとは思わなかった」と、佐々木郎希選手の才能を高く評価し、ドラフト1位指名の候補として名前を挙げていました。
画像引用元:文春オンライン
最終的に、佐々木郎希選手は2019年のプロ野球ドラフト会議で4球団(西武、楽天、ロッテ、日本ハム)から1位指名を受け、抽選の結果、千葉ロッテマリーンズが交渉権を獲得します。
「プロ入りを果たすために、正しい道を進む」と、ドラフト会議後に決意表明した佐々木郎希選手。
その後、彼はロッテと契約しプロ入りが決定。契約金は1億円プラス出来高払い5000万円、年俸1600万円(推定)という条件で合意しています。
ちなみに、佐々木郎希選手の背番号17には、将来170 km/hを投げてほしいという思いが込められているそうです。
プロ野球での活躍
まずは、佐々木郎希選手のプロ入り後の成績を見ていきましょう。
年度 | 登板数 | 勝敗 | 防御率 |
2021年 | 11試合 | 3勝2敗 | 2.27 |
2022年 | 20試合 | 9勝4敗 | 2.02 |
2023年 | 15試合 | 7勝4敗 | 1.78 |
2024年 | 18試合 | 10勝5敗 | 2.35 |
ルーキーイヤーとなった2020年は、井口監督の「試合レベルに達していない。今シーズンはちょっと難しそう」との判断により、公式戦登板は0。プロで戦える肉体強化に専念します。
2021年に公式戦デビューを飾ると、2022年には初の開幕ローテーション入りを果たし、NPBタイ記録の19奪三振で完全試合を達成。
2023年にはレギュラーシーズン7勝4敗の成績を残したほか、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に日本代表として出場し、金メダル獲得に貢献しました。
2024年は、シーズンの好不調の波があったものの、全体としては安定したパフォーマンスを発揮。プロ入り後初となる2桁勝利をあげ、チームのリーグ3位に貢献しています。
画像引用元:日刊スポーツ
また、佐々木朗希選手はプロ入り後に数々の記録を打ち立ててきました。
以下にNPBでの主な記録をまとめます。
速球記録
- 佐々木朗希選手は、プロ入り後の実戦で自己最速となる159 km/hをマーク。さらに、2022年3月27日の楽天戦では、自己最速を更新する164 km/hを計測しました。
奪三振記録
- 13者連続奪三振:2022年4月10日のオリックス・バファローズ戦で、プロ野球新記録かつ世界記録となる13者連続奪三振を達成しました。
- 1試合19奪三振:同じ試合で、プロ野球タイ記録となる1試合19奪三振を記録しました。
- 連続イニング奪三振:2022年4月17日の北海道日本ハムファイターズ戦まで、連続イニング奪三振記録を25に伸ばしました。
これは「1シーズンでの日本人投手記録」としては山本由伸(ドジャース)に並ぶ最長タイ、「シーズン初登板初回からの記録」としては史上最長記録となります。
完全試合
2022年4月10日のオリックス・バファローズ戦で、以下の記録を持つ完全試合を達成しました。
- 28年ぶり(1994年の槙原寛己以来)史上16人目の完全試合
- 毎回奪三振での完全試合達成は史上初
- 通算14試合目での達成は史上最速
- 20歳5か月での達成は史上最年少記録
日本プロ野球界で数々の記録を打ちたててきた佐々木朗希選手は、2024年シーズン終了後にポスティングシステムによるメジャーリーグ挑戦が正式に容認され、今後の動向に注目が集まっています。
メジャーへの挑戦
佐々木朗希選手は2024年1月の記者会見で、将来的なメジャーリーグ挑戦の意向を初めて公に表明しました。
画像引用元:スポニチ
そして2024年11月9日、ロッテは佐々木朗希選手のポスティングシステムを利用したメジャーリーグへの移籍を容認したことを発表。
佐々木朗希選手は、球団を通じて以下のようなコメントを発表しています。
「入団してからこれまで継続的に将来的な大リーグ挑戦について耳を傾けていただき、今回こうして正式にポスティングを許可していただいた球団には感謝しかありません。一度しかない野球人生で後悔のないように、そして今回背中を押していただいた皆様の期待に応えられるように、マイナー契約からはい上がって世界一の選手になれるよう頑張ります。」
引用:NHK
佐々木朗希選手のメジャーリーグ移籍先として、現在最も有力視されている球団はロサンゼルス・ドジャース、サンディエゴ・パドレス、そしてサンフランシスコ・ジャイアンツです
特にドジャースは、佐々木朗希選手の獲得に向けて積極的に動いているとされ、MLB公式サイトによると、双方はすでに面談を行ったとの情報もあります。
侍ジャパンのチームメートである大谷翔平選手や山本由伸選手がドジャースに在籍していることも、移籍先としての魅力を高めていることでしょう。
一方、パドレスも有力な候補として挙げられており、特にダルビッシュ有選手が佐々木朗希選手の獲得に向けて積極的に働きかけているとの報道もあります。
また、ジャイアンツも候補に入っており、これらの球団が競争を繰り広げている状況です。
移籍の決定は、交渉期限直前の1月20日以降になる見込みで、各球団がどのような条件を提示するかが注目されています。
佐々木郎希がMLBで活躍する可能性は?
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最後に、佐々木朗希選手がMLBで活躍する可能性を、具体的な根拠を踏まえて解説していきます。
まずは、佐々木朗希選手がMLBで活躍する可能性について考えてみましょう。
注目すべきポイントは、以下の3つの要素です。
1.圧倒的な球速
佐々木郎希選手の最大の武器はその球速です。彼のストレートは平均155.9 km/hで、これはMLBの平均(151.6km/h)よりも4キロ速いとされています。この圧倒的な球速は打者にとって脅威となり、多くの奪三振が期待できるでしょう。
2.多彩な変化球
佐々木朗希選手は、フォーシーム、スプリット、スライダーなど、さまざまな変化球を使い分ける投手です。特にスライダーは彼の投球の柱となっており、この球を巧みに操ることで打者を翻弄しています。その変化球の正確さと多様性は、メジャーリーグでも十分に通用する強みといえるでしょう。
3.高い制球力
佐々木郎希選手は、優れた制球力でも高い評価を受けています。バランスの良い投球フォームと安定したリリースポイントが特徴で、これにより正確なコントロールが可能になっています。この卓越した制球力は、メジャーリーグの厳しい舞台でも安定した活躍を支える大きな武器となるでしょう。
MLBで活躍する可能性が高いと考えられる一方で、佐々木朗希選手にはいくつか課題もあります。
ここからは、懸念される3つのポイントを見ていきましょう。
1.課題と適応力
メジャーリーグでは登板間隔が短くなるため、佐々木朗希選手の体力面や過去の怪我の影響が懸念されています。さらに、彼はプロ入り後、一度も規定投球回に到達した経験がないため、これがメジャーでの適応に課題となる可能性があります。
2.健康管理と怪我のリスク
佐々木郎希選手は、過去に怪我の影響で登板数が限られていたことが懸念されています。メジャーリーグでは、選手の健康管理が非常に重要であり、特に若手選手にとっては、怪我を避けるためのトレーニングや体調管理が求められます。日々のコンディション調整がメジャーでの成功に大きく影響するでしょう。
3.環境への適応
メジャーリーグは日本のプロ野球とは異なる環境であり、特に移動距離や試合数の多さが選手に与える影響は大きいです。そのため佐々木郎希選手は、アメリカの広大な地域での試合に適応する必要があります。これには、時差や気候の変化への対応も含まれ、彼の適応力が試される場面が多くなるでしょう。
佐々木朗希選手がメジャーリーグに挑戦する姿は、多くのファンにとって大きな期待と興奮をもたらします。
160km/hを超える速球とキレのある変化球、そして優れた制球力は、MLBの舞台でも十分に通用する武器です。
佐々木郎希選手がどのように自分の力を発揮し、世界最高峰のリーグで名を刻むのか。
彼の活躍は、日本の野球界だけでなく、世界中のファンに感動を与えることでしょう。
まとめ
佐々木朗希選手は、類まれな才能と努力で日本球界に数々の伝説を刻み、「令和の怪物」としてその名を轟かせてきました。
大船渡高校での伝説的な活躍、NPBでの記録的な快投、そしてメジャーリーグへの挑戦。
東日本大震災という苦難を乗り越え、野球に情熱を注いできた彼の歩みは、多くの野球ファンに驚きと感動を与え続けています。
これから始まるメジャーの舞台でも、佐々木朗希選手が新たな歴史を刻む瞬間を楽しみにしましょう。