読売ジャイアンツの代木大和選手は、ドラフト6位指名からプロ入りし、若くして一軍デビューを果たした期待の左腕投手です。
しかし度重なる怪我に見舞われ、育成契約となる苦境を経験しています。
それでも諦めることなくトミー・ジョン手術からの復活を遂げ、以前を上回る剛速球を取り戻しました。
明徳義塾高校時代から投打にわたる才能を発揮してきた彼の経歴と学歴、そして復活への道のりを詳しく見ていきましょう。
Contents
代木大和のwiki経歴
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プロ野球選手としての代木大和選手の歩みは、華々しいスタートから試練の時期を経て、現在復活へと向かう道程にあります。
高卒ルーキーとして注目を集めた彼のキャリアを振り返ってみましょう。
ドラフト指名と入団
代木大和選手は2021年10月のドラフト会議において、読売ジャイアンツから6位指名を受けました。
明徳義塾高校での投打にわたる活躍が評価されてのことです。
契約金3000万円、年俸540万円という条件で11月に仮契約を結び、背番号68でプロの世界へ足を踏み入れています。
高校時代に甲子園で華々しい活躍を見せた選手だけに、ジャイアンツファンからも大きな期待が寄せられました。
長身左腕という素材の良さに加え、打撃センスも兼ね備えた二刀流の可能性を秘めた逸材と目されていたのです。
一軍デビューと試練
プロ1年目の2022年シーズンは二軍で4試合の登板にとどまり、防御率5.59と苦しい成績でした。
しかし翌2023年、代木大和選手に転機が訪れます。
なんと球団22年ぶりとなる10代投手での開幕一軍入りを果たしたのです。
4月4日の横浜DeNAベイスターズ戦でプロ初登板を経験し、1回を無失点で切り抜けました。
その後もリリーフとして計13試合に登板する機会を得ています。
ただし思うような結果は残せず、さらに8月には左肘の手術を受けることとなりました。
若くして一軍の舞台を踏んだものの、怪我という壁にぶつかってしまったわけです。
育成契約からの再起
2024年は前年の手術から復帰を目指していましたが、春季キャンプ中に再び左腕に違和感が生じます。
精密検査の結果、4月に左肘内側側副靭帯再建術、いわゆるトミー・ジョン手術を受けることになりました。
この大手術によりシーズンを丸々棒に振る形となっています。
シーズン終了後、球団から一旦自由契約を通告されましたが、育成選手として再契約する道が用意されました。
背番号も068に変更され、年俸630万円で再スタートを切ることに。
一見すると降格のようですが、これは球団が代木大和選手の将来性を信じている証でもあります。
リハビリに励む中、実戦感覚を取り戻すためオーストラリアのウィンターリーグへ派遣されました。
アデレード・ジャイアンツでプレーした彼は、最終登板で5.2回1安打無失点9奪三振という圧巻の投球を披露。
6回途中までパーフェクトピッチングを続ける見事な復活劇でした。
代木大和の学歴
野球選手としての基礎を築いた学生時代について、各段階での成長過程を追っていきます。
地元愛媛から高知の名門校へ進み、甲子園のスターとなるまでの軌跡です。
小学生時代
代木大和選手は愛媛県四国中央市立南小学校に通っていました。
野球を始めたのは小学1年生の時で、地元の金田少年野球クラブに入団しています。
この頃はまだ外野手としてプレーしており、投手への転向は中学以降のことです。
製紙産業が盛んな四国中央市という地域で育ち、温暖な気候の中で野球に親しんでいきました。
この時期の経験が、後のプロ野球選手としての土台になったといえるでしょう。
中学生時代
四国中央市立川之江南中学校へ進学後、代木大和選手は硬式野球のクラブチーム「川之江ボーイズ」に所属します。
ここで彼の野球人生における重要な転機が訪れました。投手への転向です。
この転向が見事に当たり、中学3年時にはエース投手で4番打者という投打の中心選手に成長しました。
全国大会出場こそ叶いませんでしたが、その才能は複数の強豪高校の目に留まり、スカウトされることとなります。
硬式球で実戦経験を積んだことが、高校での飛躍につながったのは間違いありません。
高校生時代
数ある強豪校からのオファーの中で、代木大和選手が選んだのは高知県の明徳義塾高等学校でした。
四国には甲子園優勝経験のある名門が多数ありますが、その中でも明徳義塾を選択したのです。
1年時の夏、チームは甲子園に出場しましたが本人はベンチ外でした。
2年時は新型コロナウイルスの影響で公式戦が中止となるも、代替開催された交流試合で登板機会を得ています。
秋からはエースとして定着し、四国大会で好投を続けました。
3年時には春夏の甲子園に出場。春のセンバツでは仙台育英戦で8回1失点と力投しましたが、援護なく敗退します。
しかし夏の高知大会決勝では、後にプロ入りする森木大智投手との投げ合いを制して甲子園切符を手にしました。
夏の甲子園本大会では投打の二刀流として大活躍を見せています。
松商学園戦では3安打完封勝利を挙げ、さらに自らソロホームランも放ちました。
準々決勝の智辯学園戦では一塁手として出場し、9回表に勝ち越しのソロホームランを放つ劇的な場面も。
残念ながらその裏に逆転サヨナラ負けを喫しベスト8で終わりましたが、甲子園通算5試合で防御率0.65という抜群の安定感を示しました。
この甲子園での活躍が代木大和選手の名を全国に知らしめ、プロのスカウトの注目を一気に集めることになったのです。
投手としての能力だけでなく、打者としても非凡な才能を持つ選手として評価されました。
トミー・ジョン手術からの復活と速球の向上
代木大和選手の復活物語の中で最も注目すべきは、トミー・ジョン手術後の驚異的な球速アップです。
プロ入り後の怪我は選手にとって大きな試練ですが、彼はそれを乗り越えて以前を上回るパフォーマンスを手に入れました。
2023年シーズンに一軍で投げていた頃、代木大和選手の平均球速は141km/h程度でした。
最速でも143km/hほどであり、球速よりも制球力とカットボールで勝負するタイプの投手だったといえます。
しかし2024年4月のトミー・ジョン手術を経て、状況は一変しました。
手術から約1年3ヶ月後の2025年6月、3軍戦で実戦復帰を果たした代木大和選手は152km/hをマーク。さらに7月には155km/hという自己最速を記録したのです。
手術前と比べて実に12km/hもの球速アップを実現したことになります。
これは異例のスピードでの回復であり、驚異的な進化といえるでしょう。
この変化をもたらした要因は複数あります。まず肉体改造です。
入団当初82kgだった体重を、復帰時には99kgまで増やしました。
約17kgものボリュームアップで強靭な肉体を作り上げたのです。
トレーニングコーチも絶賛するほどの変貌ぶりでした。
投球フォームの改良も大きな要素です。
以前のコントロール重視型から、パワーと制球の両立を目指すスタイルへ転換しました。
下半身主導の体重移動を強化し、左肘への負担を軽減するリリース角度を習得。腕の振りを隠しながらスピードを最大化する工夫も凝らしています。
本人も「球速は自然と出てくる感覚がある」と語っており、無理に力んで投げているわけではないようです。
むしろフォームの改善により効率的にパワーを伝えられるようになったと考えられます。
今後はフォームの再現性を高めることが課題だそうで、さらなる成長が期待できそうです。
2025年シーズンは二軍で4試合に登板し、防御率2.57という好成績を残しました。
9月の西武戦では術後最長となる5回を投げ、直球は140km/h中盤をコンスタントにマーク。
制球を重視しながらも球威を維持する投球を見せています。
そしてオーストラリアでの活躍が、彼の完全復活を印象付けました。
アデレード・ジャイアンツでの最終登板では、6回途中までパーフェクトゲームを続ける圧巻のピッチング。
SNS上では「こんなすごい投球するとは」「唸りをあげてる」といった驚きの声が続出しました。
トミー・ジョン手術という大きな試練を乗り越え、むしろ以前より強くなって戻ってきた代木大和選手。
座右の銘「耐えて勝つ」を体現する姿には、多くの野球ファンが心を動かされたことでしょう。
育成選手から支配下登録を勝ち取り、再び一軍のマウンドに立つ日が待ち遠しいですね。
まとめ
代木大和選手は明徳義塾高校時代に甲子園で投打に活躍し、2021年ドラフト6位で読売ジャイアンツに入団しました。
10代での一軍デビューを果たしたものの度重なる怪我に見舞われ、2024年にはトミー・ジョン手術を経験。
一旦育成契約となりましたが、リハビリと肉体改造により球速を155km/hまで向上させる驚異的な復活を遂げています。
オーストラリアでの好投も話題となり、支配下復帰に向けて着実に歩みを進めている期待の左腕です。


