プロ野球史に燦然と輝く名選手、張本勲さん。
通算3085安打という大記録を残したレジェンドですが、その国籍について疑問を持つ方も少なくありません。
日本生まれなのに韓国籍だったのはなぜなのでしょうか。
この記事では、張本勲さんの国籍にまつわる歴史的背景を調査するとともに、彼を支えた家族構成についても詳しく紹介していきます。
波乱に満ちた人生の軌跡を、一緒にたどってみましょう。
張本勲の国籍について

張本勲さんの国籍については、時代とともに変化してきたというのが結論です。
出生時は日本国籍であり、戦後に韓国籍となり、そして晩年に再び日本国籍を取得しています。
この複雑な変遷の背景には、戦後日本の法制度と、朝鮮半島にルーツを持つ家庭に生まれたという事情が深く関わっていました。
なぜこれほど国籍が変わったのか。
その理由は、本人の意思だけでなく、時代の大きなうねりに翻弄された部分が大きいのです。
ここからは、本名や歴史的背景を掘り下げていきます。
本名は「張勲(チャン・フン)」

張本勲さんの帰化前の本名は、張勲(チャン・フン/장훈)といいます。
両親がともに朝鮮半島の出身で、在日コリアンの家庭に生まれ育ちました。
私たちが親しんできた「張本勲」という名前は、通名として使われていた登録名なのです。
出生時には日本国籍を持っていました。
ところが1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効します。
これに伴い、日本に住む旧植民地出身者やその子孫の国籍が一律に整理されることになりました。
その結果、張本勲さんは韓国籍として扱われる立場になったわけです。
以来、現役時代から引退後まで、長きにわたって韓国籍を保持し続けました。
球団側から帰化を勧められた時期もあったそうです。
しかし母への思いや自らのルーツ、在日コリアンとしての誇りを胸に、簡単には国籍変更を選びませんでした。
転機が訪れたのは2024年12月のこと。
産経新聞のインタビューで「数年前に国籍を変えた。今は日本国籍だ」と公表したのです。
つまり現在の国籍は日本ということになります。
ネット上には「今も韓国籍」とする古い記事が残っていますが、それらは更新前の情報だと考えてよいでしょう。
長年守り抜いたものを晩年に手放す決断には、相当な重みがあったのだろうと感じます。
「日本生まれなのに韓国籍だった」歴史的背景

ここで大切なのは、生まれた場所だけで国籍が自動的に決まるわけではない、という点です。
日本の国籍法は原則として血統主義を採用しています。
日本で生まれたという事実そのものが、日本国籍の永続的な取得を意味するわけではないのです。
張本勲さんが生まれた1940年は、まだ日本統治期でした。
当時、朝鮮半島出身者は法的に日本国籍者として扱われていたのです。
ところが戦後の法制度変更によって状況が一変します。
朝鮮半島にルーツを持つ人々は日本国籍を失い、韓国や朝鮮に結びつく在留上の地位へと移ることになりました。
こうして張本勲さんは、日本で生まれ育ちながらも、青年期や選手生活の大半を在日コリアン二世として過ごすことになります。
この経歴は、単なる戸籍上の手続きにとどまりません。
両親が朝鮮半島から日本へ渡った移住の歴史、戦中戦後に経験した貧困や差別、被爆者としての偏見など、幾重もの困難と結びついていました。
だからこそ晩年の帰化は、それまでの韓国籍としての人生を否定するものではないと言えます。
むしろ長い歩みの最終盤に下した、ひとつの法的な選択として受け止めるべきでしょう。
時代に翻弄されながらも、自らのアイデンティティを大切にし続けた姿勢には胸を打たれます。
張本勲の出自と実家の家族構成

張本勲さんの人生を語るうえで欠かせないのが、家族の存在です。
彼の野球人生は、家族の支えなしには成立しませんでした。
厳しい時代を懸命に生き抜いた家族の物語こそ、彼の強さの源泉だったのです。
張本勲さんは1940年6月19日、広島市で誕生しました。
父は張相禎(張尊禎とも表記)、母は朴順分(パク・スンブン)といいます。
両親はともに朝鮮半島の慶尚南道方面を出自としていました。
家族は父母と4人きょうだいから成る6人家族。ここからは、それぞれの人物にスポットを当てていきます。
父・母:移住、死別、生活再建

張本勲さんの両親は、戦前に朝鮮半島から広島へと渡ってきました。
先に来日していたのは父で、1939年ごろに母と兄姉が広島へ移り住みます。
母は身重の状態で海を越え、翌1940年に張本勲さんを出産したと伝えられています。
戦後、父は財産整理などのため故郷へ戻り、そこで病死してしまいます。
残された母・朴順分さんは、被爆後の広島で子どもたちを養わなければなりませんでした。
原爆で長女を失い、夫にも先立たれた母。
それでも彼女は広島駅前の闇市で牛や豚の臓物を仕入れ、ホルモン焼きなどの商いで生活を支えたのです。
張本勲さんは母について、「寝ている姿を見たことがない」と語っています。
これは決して大げさな表現ではありません。
早朝からの仕入れ、仕込み、商売、そして縫い物まで、母は休みなく働き続けました。
少年時代、プロ野球選手が肉や卵を食べる姿を見て「母にも食べさせたい」と願ったこと。
それこそがプロを志す原点になったといいます。
母への思いが野球人生の出発点にあったと知ると、胸が熱くなります。
被爆と長姉・点子の死
1945年8月6日、5歳だった張本勲さんは広島市段原付近の自宅で被爆しました。
爆心地から約2〜3キロ離れた地域で、比治山の地形にも助けられ、直撃の熱線からは一定程度免れたそうです。
それでも爆風によって自宅は倒壊してしまいます。
母は幼い勲さんと姉の愛子さんをかばい、その身にはガラス片が刺さり、背中から血を流していました。
母の指示を受けた愛子さんは、5歳の弟の手を握って避難します。
行き先も定まらぬまま人々の流れに従って歩き、夜には見知らぬ人から白米のおにぎりをもらったと伝わっています。
避難先で一家は再会を果たします。
しかし勤労動員先にいた長姉・点子さんは、全身に大やけどを負っていました。
張本勲さんと愛子さんは点子さんを探し出し、救護所のような場所で見つけます。
苦しむ姉の口元にブドウを絞って果汁を与えた記憶を、張本勲さんは後年になっても語り続けました。
点子さんは、まもなく息を引き取ります。
この死について、家族は長く口を閉ざしました。
母は点子さんの写真や形見を処分し、家族も母を悲しませまいと原爆の話を避けたのです。
その沈黙は忘却ではなく、あまりに大きな喪失を抱えて生き抜くための、切実な防衛だったのだと思います。
次姉・小林愛子と「3085」の継承

次姉の小林愛子さんは、張本勲さんの人生を最も直接的に証言してきた家族のひとりです。
原爆投下時はわずか7歳。
それでも母の命を受けて5歳の弟の手を引き、焼け野原を必死に逃げました。
あの行動がなければ、張本勲さんの生存も、その後の輝かしい野球史も存在しなかったかもしれません。
愛子さんは長い間、被爆体験を語りませんでした。
転機となったのは、教育現場からの依頼と子どもたちの反応です。
それをきっかけに証言活動を始めます。
さらに核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」を、たったひとりで集め始めました。
掲げた目標は、弟の通算安打数である3085本。
2019年時点で愛子さんが集めた署名は3130人分に達し、後には累計3481人分にまで積み上がったと報じられています。
目標の3085を超えたとき、張本勲さんは「お姉、すごいな。大あっぱれ」と称えました。
普段は避けてきた原爆の記憶を、姉弟が平和活動という形で共有した象徴的な場面です。
姉弟の絆の深さが伝わってくる、心に残るエピソードですね。
兄・世烈:野球人生を可能にした支援者
兄・世烈さんは、父の死後、家族にとって父親代わりの存在となりました。
張本勲さんが地元の広島から大阪の浪華商業高校へ進もうとしたとき、母は経済的な事情と別れのつらさから強く反対したそうです。
しかし兄は弟の才能を信じ、母を粘り強く説得しました。
そして自らの給与から仕送りを続けたのです。
毎日新聞の報道によれば、当時タクシー運転手だった兄は、月給の半分近くにあたる1万円を弟に送り続けたといいます。
プロ入り後、張本勲さんは契約金200万円を広島へ持ち帰り、母のための家を建てました。
この事実は、彼の野球が個人の才能だけで実現したのではないことを物語ります。
兄の経済的、そして精神的な支えがあってこそ、成し遂げられたものだったのです。
母は生活を守り家族の精神的な中心となり、兄は父親代わりとして進学と挑戦を支えました。
愛子さんは被爆時に弟を避難させ、戦後も心のつながりを保ち続けます。
そして張本勲さんは野球で成功し、家族へ恩返しを果たそうとしました。
この相互扶助こそが、「家族を悲しませない」「結果で返す」という彼の強い価値観の基盤になったのだと感じます。
張本勲の妻と子供について

張本勲さんは結婚し、2人の子どもがいることを自著などで明かしています。
ただし現役時代については、野球に没頭するあまり家庭を顧みず、妻や子どもに苦労をかけたという自己反省も率直に語っています。
ここでは、公表されている範囲の情報を整理していきます。
印象的な逸話がひとつあります。
1980年5月28日、ロッテ在籍時に通算3000安打を達成した際のことです。
妻が内緒で母・朴順分さんを川崎球場へ呼んでいたというのです。
記録達成の日が読めないことから、張本勲さんは当初、家族を呼ばないようにしていました。
ところが妻の計らいによって、母が息子の偉業を直接見届けることになったのです。
粋な計らいだと思わず唸ってしまいました。
まとめ
張本勲さんは日本で生まれ、長く韓国籍の在日コリアン二世として生き、晩年に日本国籍を取得した人物です。
国籍の変遷の背景には、戦後日本の制度史だけでなく、朝鮮半島出身の両親、広島での被爆、父の死、母の献身、兄と姉の支えという濃密な家族史が刻まれていました。
通算3085安打という大記録は、幾重もの困難を越え、家族への責任を原動力とした生涯の到達点だったのです。



