日本プロ野球史に名を刻んだ名打者、張本勲さんが2026年9月9日に86歳で亡くなりました。
この記事では、張本勲さんのwiki経歴と学歴を振り返ります。
幼少期の大火傷で右手に障害を負いながら、その困難を克服し、NPBの通算最多安打記録を達成した歩みを、被爆体験や球界での活躍とともに紹介していきます。
名選手が残した足跡を、あらためて見つめ直してみましょう。
張本勲のwiki経歴

張本勲さんは、逆境をはねのけて頂点に立った稀有な打者です。
右手の障害、被爆、貧困、差別という数々の困難を、野球への情熱で乗り越えていきました。
その生涯は、単なる成功物語ではありません。
ここからは張本勲さんの基本情報を確認したうえで、幼少期から引退後までの歩みを順を追って見ていきます。
まずは基本プロフィールをまとめます。
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張本勲さんは1959年から1981年まで、22年以上にわたって第一線で活躍しました。
通算3,085安打はNPB史上唯一の3,000安打達成記録であり、現在も最多記録として輝いています。
数字だけでも、その偉大さが伝わってきますね。
幼少期と広島での被爆体験
張本勲さんの人生の原点には、戦争の記憶があります。
1945年8月6日、5歳のときに広島で被爆しました。
爆心地から約2キロ離れた段原新町付近におり、母親に覆いかぶさられて命を取り留めています。
姉の点子さんは学徒動員中に被爆し、全身に大火傷を負って数日後に亡くなりました。
張本勲さんは姉の最期を看取り、ブドウの汁を口元に運んだと後年語っています。
この体験は長く公には語られませんでした。
在日韓国人二世として、貧困と差別の中で育った少年期。
こうした経験が、「野球で人生を切り開く」という強い意志を育てたといえるでしょう。
想像を絶する幼少期だったと感じます。
幼少期の大火傷と左投左打への転向
張本勲さんが打者として非凡だった背景には、右手の障害を克服した努力があります。
4歳の冬、焚き火のそばでトラックを避けようとして転倒し、右半身から火の中へ倒れ込みました。
右手は親指と中指以外の自由を失うほどの重傷を負いました。
野球選手にとって、手の機能障害は致命的になりかねません。
ボールを握ることも、送球することも難しくなるからです。
当初は右投げ左打ちでしたが、変化球を投げにくかったため、左投げへ転向する決断をしました。
つまり、単なる左打者ではなく、障害を補うために利き手そのものを変えたのです。
この再構築が、後の独自の打撃感覚を生み出す土台となりました。
逆境を武器に変えた姿勢には、頭が下がります。
東映フライヤーズ入団と新人王

高校卒業後の1959年、張本勲さんは東映フライヤーズへ入団しました。
中日ドラゴンズからより高額な契約金を提示されていましたが、東京への憧れや浪商の先輩の存在から東映を選んでいます。
契約金200万円で、まず母親のために広島へ家を建てました。
親孝行な一面がうかがえるエピソードですね。
高卒新人ながら開幕戦に先発出場を果たします。
デビュー戦では速球に苦しみましたが、翌日には初安打の二塁打と初本塁打を記録しました。
1959年は125試合で115安打、13本塁打、57打点、打率.275をマークし、パ・リーグ新人王に選ばれています。
東映時代の飛躍と1962年のリーグ優勝

入団後の張本勲さんは、着実に一流打者へと成長していきました。
2年目の1960年に打率.302を記録し、3年目の1961年には打率.336で初の首位打者を獲得しました。
同年5月7日にはサイクル安打も達成しています。
そして1962年、東映は球団史上初のパ・リーグ優勝を成し遂げました。
張本勲さんは打率.333、31本塁打、99打点、23盗塁を記録し、リーグMVPに輝きます。
日本シリーズでは阪神タイガースを相手に全7試合で4番を務め、26打数12安打と活躍しました。
第6戦では2点本塁打を放ち、球団初の日本一に大きく貢献しています。
打率も長打も走塁も兼ね備えた、総合力の高い打者だったと言えるでしょう。
1960年代後半の黄金期
張本勲さんの打撃が最も光り輝いたのが、1967年から1970年にかけての時期です。
この4年間、パ・リーグ首位打者を連続で獲得しました。
打率の高さだけでなく、出塁率も4割を超える年が続いています。
なかでも1970年は生涯最高のシーズンでした。
176安打、34本塁打、100打点、打率.383を記録します。
この打率は当時の日本記録を更新し、1986年にランディ・バースが上回るまで残りました。
この頃に完成したのが、グラウンド全体を使う「広角打法」です。
コースに応じて左右へ打ち分けるため、守備側は極端なシフトを取りにくくなりました。
安打を量産する技術の高さには、あらためて驚かされます。
巨人時代と「OH砲」

1976年、張本勲さんは読売ジャイアンツへ移籍しました。
少年時代から憧れた球団への加入は、長年の夢の実現でもありました。
当時の巨人は長嶋茂雄監督のもとで再建を目指していた時期です。
王貞治さんとの左打者コンビは「OH砲」と呼ばれ、巨人打線の象徴となりました。
相手投手は王さんだけを避けることが難しくなり、打線全体の得点力が高まっています。
移籍1年目に打率.355、182安打を記録し、翌1977年も打率.348と好成績を残しました。
リーグが変わっても高打率を維持した点は、その実力が本物だったことを物語ります。
一方で右手の障害は守備面の課題として残り続けました。
ロッテ時代と通算3000安打

1979年に成績が落ち込んだ張本勲さんですが、通算3,000安打まで残りわずかでした。
そこで現役続行を決意し、1980年にロッテ・オリオンズへ移籍します。
そして1980年5月28日、川崎球場での阪急ブレーブス戦。
山口高志投手から右翼席へ2ランを放ち、NPB史上初の通算3,000安打を達成しました。
節目の一打を単打ではなく本塁打で飾ったところに、張本勲さんらしさが表れています。
安打製造機としての技術と、通算504本塁打が示す長打力が同時に証明された瞬間でした。
翌1981年に現役を引退しています。
有終の美にふさわしい記録だったと思います。
引退後の活動

引退後の張本勲さんは、野球評論家として新たな道を歩みました。
TBS系『サンデーモーニング』の「週刊御意見番」には23年間出演し、「喝!」「あっぱれ!」の言葉で野球ファン以外にも広く親しまれています。
また、1982年に発足した韓国プロ野球KBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務め、日韓のスポーツ交流にも貢献しました。
2007年には韓国の国民勲章無窮花章を受章しています。
晩年には被爆体験を語り、核兵器廃絶を訴える活動も支えました。
選手としての記録を超えて、幅広い分野に足跡を残した人物だったといえるでしょう。
張本勲の学歴
張本勲さんの学歴は、広島市立比治山小学校、段原中学校、松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制、浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商中学校・高等学校)の四校で構成されます。
大学には進学せず、高校卒業後すぐにプロの世界へ進みました。
実はこの進学の歩みには、いくつもの偶然が重なっています。ここからは各時代を詳しく見ていきましょう。
小学生時代

張本勲さんが野球と出会ったのは、広島市立比治山小学校5年生のときです。
近所の年上の友人に「人数が足りないから来てよ」と誘われたことがきっかけでした。
最初のポジションは右翼で8番、いわゆる「ライパチ」だったそうです。
初打席でいきなり二塁打を打ったと伝えられており、これで野球が一気に楽しくなったといいます。
もともと得意だったのは水泳で、川に飛び込んで遊ぶ少年でした。
この時期には、右手の影響で遠くへ送球できない課題を抱えていました。
そのため練習を重ね、左投げ左打ちへの転向を進めています。
中学生時代

段原中学校に進学した張本勲さんですが、この学校には水泳部がありませんでした。
そこで2番目に好きだった野球に本格的に取り組むことになります。
本人も「水泳部があれば野球選手になっていなかった」と振り返っており、偶然が運命を決めた形です。
中学では2年生でレギュラーとなり、投手兼4番打者として活躍しました。
広島県大会で優勝を果たすなど、早くから高い能力を発揮しています。
貧困から抜け出したいという思いも、野球への情熱を後押ししました。
木に登って球場を観戦したエピソードも残っています。
高校生時代
甲子園を夢見た張本勲さんは、広島商業や広陵高校への進学を希望していました。
しかし中学時代の素行を理由に入学が叶わず、松本商業高校の定時制へ進みます。
昼は学生食堂で働き、夜に学ぶ多忙な生活で、練習時間の確保は困難でした。
より良い環境を求めた張本勲さんは、大阪の名門・浪華商業高校へ転校します。
兄からの仕送りに支えられての決断でした。
浪商では1年の終盤に4番打者を任されるほどの才能を発揮しました。
しかし対外試合禁止処分などの不運が重なり、甲子園出場は叶いませんでした。
それでも野球を続ける決意を固め、1959年に東映へプロ入りしています。
まとめ
張本勲さんの経歴と学歴を振り返ってきました。
右手の障害を左投左打への転向で克服し、NPBの通算最多安打記録という金字塔を打ち立てた歩みは、まさに逆境を力に変えた人生でした。
被爆や差別を乗り越えた姿は、多くの人に勇気を与えたはずです。
惜しくもこの世を去りましたが、その偉大な記録と精神は、これからも語り継がれていくことでしょう。
心よりご冥福をお祈りいたします。



