プロ野球界を代表する投手の一人、菅野智之選手。
東海大相模高校から東海大学を経て、読売ジャイアンツのエースとして輝かしい実績を残してきました。
しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
小学生時代から野球に打ち込み、高校時代には挫折を経験。
大学では「大学BIG3」と呼ばれるほどの注目を集めながらも、プロ入りには一波乱ありました。
本記事では、菅野智之選手の学生時代からプロとしての活躍、そして彼の野球人生を形作った出来事を詳しく紹介します。
彼の努力と才能が交差する軌跡をたどりながら、トップアスリートの素顔に迫ります。
Contents
菅野智之のプロフィール
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菅野智之選手は、日本を代表する投手として知られています。基本プロフィールは次の通りです。
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菅野智之選手は2012年のドラフト1位で巨人に入団し、以来チームのエースとして活躍を続けています。
MVP、最優秀防御率、最多勝利など、数々のタイトルを獲得。
2017年のWBCでは日本代表としても出場し、国際舞台でも実力を発揮しました。
注目すべきは、彼の家系です。
叔父は元巨人監督の原辰徳であり、野球一家に生まれ育ったことが、彼の野球人生に大きな影響を与えています。
菅野智之の学歴
菅野智之選手の野球人生は、学生時代からの努力と成長の積み重ねです。
各段階での経験が、現在の彼を形作っています。
小学生時代
画像引用元:週刊ベースボールONLINE
菅野智之選手の野球との出会いは小学1年生の時でした。
神奈川県相模原市の軟式少年野球チーム「東林ファルコンズ」に所属し、主にピッチャーとしてプレーしていました。
この時期から、彼の努力の姿勢が垣間見えます。
毎日の壁当て練習は、後の抜群の制球力につながりました。
また、負けず嫌いな性格や、祖父からの厳しい指導など、プロ選手としての基礎が築かれていったことがわかります。
中学生時代
画像引用元:THE DIGEST
中学時代、菅野智之選手は相模原市立新町中学校の軟式野球部に所属しました。
この時期は、野球漬けの毎日を送っていたようです。
朝練習の前に父親と二人で行う「朝練の朝練」、そして部活動と、野球一色の生活を送っていました。
3年生の夏には関東大会ベスト8入りを果たし、最速127キロを記録。右打者のアウトコースの制球の良さや、堂々としたマウンドさばきが注目されました。
すでにこの頃から、「原貢さんの孫」「おじさんが原辰徳さん」として有名だったそうです。
高校時代
画像引用元:日刊ゲンダイ
2005年、菅野智之選手は野球の強豪校として知られる東海大相模高校に進学しました。
しかし、高校時代は決して順風満帆ではありませんでした。
1年生の時に右肩を怪我し、半年間投球できない状態に。
野球を辞めたいと思うほどの挫折を経験しました。
2年生の春の選抜大会ではベンチ外となり、甲子園の土を踏むことはできませんでした。
しかし、3年生の夏に転機が訪れます。
神奈川県大会準決勝で名門・横浜高校との試合で大活躍。
「振り逃げ3ラン」で3得点を挙げ、話題を呼びました。
この頃には、ストレートが140km/hを超えるようになっていました。
ただし、3年間を通じて甲子園出場は叶いませんでした。
高校時代の菅野智之選手は、現在の活躍からは想像できないほど、それほど注目されていた投手ではなかったそうです。
大学時代
画像引用元:週刊ベースボールONLINE
大学進学後、菅野智之選手の才能が開花します。
東海大学野球部に所属し、1年生から主戦投手として活躍。
2年生の夏から4シーズン連続で首都大学リーグの優秀投手賞を受賞しました。
大学通算成績は37勝4敗、防御率0.57、347奪三振という驚異的な数字を残しています。
3年生の夏には全日本大学野球選手権大会でノーヒットノーランを達成。
第5回世界大学野球選手権大会では、自己最速となる157km/hの直球を投げ、注目を集めました。
この頃には、「大学BIG3」と呼ばれるほどの存在となり、プロからの注目度も高まっていきました。
大学卒業後の浪人生活
画像引用元:スポニチSponichiAnnex
2011年のドラフト会議で日本ハムファイターズに1位指名されたものの、菅野智之選手は入団を拒否。
1年間の浪人生活を選択します。
この決断の背景には、「小さいころからの夢」である巨人入りへの強い思いがありました。
浪人中は東海大学の施設を使用して自主練習を行い、紅白戦やシート打撃に参加して実戦感覚の維持に努めました。
また、高校野球や日本プロ野球、メジャーリーグの試合を積極的に観戦し、野球選手としての視野を広げていったそうです。
この1年間は不安との戦いでもありましたが、菅野智之選手は「練習のための練習でいいと割り切って考えることにした」と前向きな姿勢で取り組みました。
この経験が、後のプロでの活躍につながったと言えるでしょう。
菅野智之が野球をはじめたきっかけは?
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菅野智之選手が野球を始めたきっかけは、1995年10月8日に遡ります。
当時6歳だった菅野少年は、伯父である原辰徳の引退試合を観戦しました。
この体験が、彼の野球人生の出発点となりました。
しかし、それだけではありません。菅野家は野球一家と呼べるほどの環境でした。
祖父の原貢は東海大相模などの監督を務めた名将。
テレビをつければ巨人戦が放送されているような日常の中で、菅野智之選手は自然と野球に親しんでいきました。
野球を始めてからは、プロ野球選手になることを強く意識するようになったそうです。
「野球選手になりたいって言ってからは、絶対になれるもんだと。たぶん野球選手になるんだろうなって勝手に思っていました」と、後に語っています。
この強い意志と恵まれた環境が、菅野智之選手を日本を代表する投手へと導いていったのです。
菅野智之の成績と年俸推移
菅野智之のプロ入り後の成績と年俸推移は次の通りです。
年 | 勝敗 | 防御率 | 奪三振 | 年俸 |
---|---|---|---|---|
2013年 | 13勝6敗 | 3.12 | 155 | 1,500万円 |
2014年 | 12勝5敗 | 2.33 | 122 | 7,000万円 |
2015年 | 10勝11敗 | 1.91 | 126 | 1億1,000万円 |
2016年 | 9勝6敗 | 2.01 | 189 | 1億3,000万円 |
2017年 | 17勝5敗 | 1.59 | 171 | 2億3,000万円 |
2018年 | 15勝8敗 | 2.14 | 200 | 4億5,000万円 |
2019年 | 11勝6敗 | 3.89 | 120 | 6億5,000万円 |
2020年 | 14勝2敗 | 1.97 | 131 | 6億5,000万円 |
2021年 | 6勝7敗 | 3.19 | 102 | 8億円 |
2022年 | 10勝7敗 | 3.12 | 104 | 6億円 |
2023年 | 4勝8敗 | 3.36 | 54 | 5億円 |
2024年 | 15勝3敗 | 1.67 | 111 | 4億円 |
菅野智之選手は2013年のプロ入り以来、巨人のエースとして活躍し続けています。
特に2014年から2018年にかけては最高峰の成績を残し、年俸も順調に上昇。
2021年には8億円という日本プロ野球トップクラスの年俸に達しました。
しかし、近年は怪我の影響もあり、成績が若干低下傾向にあります。
それに伴い、年俸も2021年をピークに減少していますが、依然として巨人の主力投手として期待されています。
菅野智之が獲得したタイトル
菅野智之選手が獲得した主なタイトルは以下の通りです:
- 最優秀防御率:4回(2014年, 2016年, 2017年, 2018年)
- 最多勝利:3回(2017年, 2018年, 2020年)
- 最多奪三振:2回(2016年, 2018年)
- 沢村賞:2回(2017年, 2018年)
- 最優秀選手(MVP):2回(2014年, 2020年)
- ベストナイン:4回(2014年, 2017年, 2018年, 2020年)
- ゴールデングラブ賞:4回(2016年, 2017年, 2018年, 2020年)
特筆すべきは、2018年に達成した投手三冠(最多勝, 最多奪三振, 最優秀防御率)です。
また、2018年にはNPBポストシーズン史上初のノーヒットノーランを達成し、2020年には開幕投手からのシーズン13連勝というNPB最多記録を樹立しています。
これらの実績は、菅野智之選手が日本を代表する投手であることを如実に物語っています。
まとめ
以上が、菅野智之選手の野球人生について詳しく解説してきました。最後に簡単にまとめたいと思います。
- 野球一家に生まれ、幼少期から野球に親しむ環境にあった
- 高校時代に挫折を経験するも、大学で才能が開花
- プロ入りまでに1年の浪人生活を経験
- プロ入り後は巨人のエースとして活躍し、数々のタイトルを獲得
- 近年は怪我の影響で成績にやや陰りも、依然として主力選手
菅野智之選手の野球人生は、才能と努力、そして環境が相まって形作られてきました。
高校時代の挫折や、プロ入り前の浪人生活など、順風満帆とは言えない経験も、彼を成長させる糧となりました。
プロ入り後の輝かしい実績は、これらの経験の上に築かれたものと言えるでしょう。
今後も、日本を代表する投手としての活躍が期待される菅野智之選手。
彼の今後の野球人生にも、引き続き注目が集まることでしょう。